とり・みき「冷食捜査官1」モーニングKC

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-372756-2, \619

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 金で金を動かしていた連中の化けの皮がはがれる前から,この国の出版界は沈滞気味になっていた。竹熊健太郎という日の本一の饒舌な男は既に死んでいる状態であると主張していたが,そのいくぶん楽しんでいるような高いトーンのおしゃべりの内容を頭で理解するより先に,敏感なこの国の連中は差し込むような懐の痛みを感じるようになっていた。
 自分を支える地面がカズフサ共々ゴゴゴゴゴという地響きを立てて沈んでいく気分が蔓延してたのは間違いない。しかし,沈むものがあれば浮かぶものもある,ということを,抜け目のない奴らは察知していた。日本が海に沈んだら奈良の大仏は浮かぶだろう,ということを指摘していたトニーたけざきは折角の慧眼をギャグにしか生かさなかったが,講談社には沈む漫画界においても決して沈まないコアなファンの付いているマンガ家を商売に結びつけようとした編集者が,少なくとも一人は在籍しているらしい。ミステリー雑誌「メフィスト」にとり・みきの作品が登場したのも驚かされたが,旧作も含めて「猫田一金五郎の冒険」として一冊にまとまったのを掛川の本屋で見た時には,枯れた涙腺に刺激を感じた程だ。そして看板青年雑誌「モーニング」に登場した時にはあのジャーナリスト・武田徹も日記で言及(2008-09-21)するほどの事件となり,今回遂に講談社モーニングコミックスの一冊として本書が上梓された。
 俺は予言というものを信じないが,蓋然性の高い合理的な論というものには一定の信頼を置いている。この東洋の片隅の国には「とり・みき」という5文字に反応する輩が,少なく見積もっても数万単位で存在していて,そいつらはこの先こぞってUTF-8やShift JISで記述された検索可能な本書に関する電子情報を砂漠のデータセンターへ送り出すことになる,というのは予言ではなく後者に該当するものだ。コアなファンが存在することは,1979年の週刊少年チャンピオンに「ぼくの宇宙人」が掲載されて以来実証され続けてきたのだから。

 ハードボイルドという形式に,俺は全く親しんでこなかった。谷口ジロー&関川夏央の「事件屋稼業」がそれだというなら,それしか知らない,という程度だ。この冷食捜査官シリーズがハードボイルドのパロディであるという言説には,肯定も否定もする資格が俺にはない。パロディではないオマージュだ,いや,とり・みきにとってのハードボイルドそのものが本作なのだ,と言われても同じだ。
 もう一度言っておく。本作と「ハードボイルド」という表現形式との関連について,判断をする資格が俺にはない。関心もない。そんなものを議論して欲しがる奴らの気持ちが,俺には分からない。
 本作は面白い。俺にとってはそれだけで十分だ。遺影のように黒縁で塗りつぶされたA6版の一ページ一ページは重苦しい雰囲気を漂わせると同時に,この黒縁の中だけに俺たちの視線を釘付けにする。コマの一つ一つに詰め込まれた細かい物言わぬギャグの読みとりにマニアを熱中させて止まない。マニアではない俺でも,しょうゆ豚弁当のパッケージ(P.170 2コマ目)を見つけて心が浮き立つのを抑えることが出来なかった程だ。この弁当については吉田戦車が言及してたのをたまたま知っていたからだ。恐らく,他にも俺が気づかないギミックが本書には大量に詰め込まれているのだろう。あと2,3回は再読して未発見のそれを見つけていくつもりだ。

 とり・みきのマンガ家としての活動が少なかったミレニアム前後の時代,彼はSF作家クラブで事務局長を務め,歯槽膿漏のタコ(イカ?)を各種のマンガに登場させる手伝いをし,吉田保や江口寿史とクラブで円盤を回して若い男女を恍惚とさせつつ,吉田戦車と伊藤理佐を山登りに連行して結婚させてしまった。いわば,マンガ・SF業界における黒幕として暗躍してきたのだ。黒幕というには目立ち過ぎだと思うが。
 その一方で,「遠くへ行きたい」をひっさげてフランスに殴り込みをかけ,国際的にもこのサイレントな笑いを届ける努力を惜しんでいない。「わしズム」には重苦しい不安だけを抜き出した作品を掲載させ,気が付くとどこかに「遠くへ行きたい」の9コマが載っていたりする。国内的にも寡作ではあるが静かにマンガ家としての営みを続けていたのを時折目にし,デビュー作以来ストーカーのように後を付けていた俺もそのしぶとさには感心させられた。それもこれも,俺のようなとり・みきストーカーが万単位で存在していたからこそ可能な活動だったことは,とり・みき自身も自著で言及している。
 その結果として,沈滞するこの国の漫画界においてその沈まぬ存在がクローズアップされてきたのも当然のことだ。俺としては逆にモーニングのようなメジャー青年誌までもが,とり・みきという碇にすがってきたことに驚きを感じる。ファンとしてはめでたいことだが,冷食捜査官が農林水産省の事務次官に昇進しても,一流新聞の三面記事になることは期待できない。初芝ホールディングスの新社長のような大衆的人気を得るとは思えない。とり・みきは,秋田書店から出ると決意した時から,そのような路線を自分から忌避してきたマンガ家だからだ。そんなマンガ家にまですがらざるを得なくなったこの日本の漫画業界の行く末が,俺としては少し心配になる。

 しかし,業界がどうなろうと,とり・みきは変わらずマンガ家を組織し,バツイチカップルを誕生させつつ,サイレントな笑いを書き続けるに違いない。

 俺はもう業界の心配するのを止めて,冷食捜査官の旧作が収録された「犬家の一族」(徳間書店)との比較対照作業に入った。そして,本書P.73のセリフ(4コマ目)にある誤植が取り除かれた次の増刷本が刊行されるのを静かに待つことにした。

(注)誤植は他にもあるようだ・・・みんな細かいよな。