[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-480-09041-6, \1000
一松信,という存在を最初に目撃したのは,多分,日本数学会の年会,もしくは数値解析シンポジウムだったと思う。ワシが修士の頃だから,今からえーと・・・(脳細胞の劣化が激しいのでしばしお待ちを)・・・15年ほど前になるのか。数値解析シンポジウムに初めて参加したのは大学4年生の時だから,ひょっとするともうちっと前かもしれない。まあ,そんなことはどうでもいい。ともかく,一松は大変に目立つ存在だった。
常に講演会場の大体最前列に座り,研究発表の最中,ずーぅううっと「うんうん」と例の甲高い声で頷きながら話を聞いている変なオジイサン。それが一松なのである。もちろんワシもその「うんうん」攻撃にさらされた一人であるが,慣れるとそれほどイヤではない,とゆーか,一松が居るのにあの「うんうん」が聞こえてこないと逆に不安になってくるのである。一度,某M君は講演中に「そうかな?」という一言が聞こえてきてギクリとした経験があるそうだが,ワシは羨ましいなあと思ったものだ。つまり一松に疑問を抱かせる話題を振った,という事でもあるんだから。
聞くところによると,あの「うんうん」の癖は若い頃から続いているそうで,若かりし一松が御大から「うるさい!」と怒られたこともあったらしい。ふーん,てぇことはつまり,相手がどんな若かろうとベテランだろうと分けて立てなく攻撃(?)していたってことだ。これは,かなり凄いことである。そしてこの徹底した平等精神が,一松の存在を一種独特のものにしていると言えるだろう。
コンピュータへの応用も広く視野に入れ,(たぶん)60年以上も縦横に活躍し,今も現役であり続けている一松の業績を,ワシごときが把握することなぞ当然できる筈もない。しかし,その「ケタ違い」の仕事ぶりの一端を知ることが出来るものとして,ワシは「数学とコンピュータ」(ちくま学芸文庫に入れてくれませんかね?)を挙げておく。これは「数学」を「コンピュータ」に載せるための2大流派「数値解析」と「数式処理(記号処理)」それぞれについて,ほぼ等分に論じた新書サイズのコンパクトな本である。だから読了するにもそれほど時間がかからない・・・と思ったあなた,それは甘い。まーなんとゆーか,話題が豊富すぎるのである。最初は「とっちらかっている」としか思えなかったが,何度も再読しているうちに,単純に知識をひけらかしているのではなく,一つの考え方に対してカウンターとなる考え方を引っ張り出してきたり,そこから派生する別の問題を引き出してきたり,つまり,実はとっちらかっているどころか,ちゃんと話題の間には繋がりがあったのである。
大体,人間の脳に詰め込める情報量というのはそれほど多くない。それ故に,覚えておくべき情報を取捨選択する必要がある訳だが,そのためには「方便」が必要である。「バカだから覚えていられませーん」という正直さをもった人間はマレであり,普通は「なんとか主義」という奴を取捨選択のフィルタとして使用し,「ワシの主義に反する」とかなんとか言っちゃって,知識量を意図的に制限する。そうでないと脳がパンクしてしまうからである。情報が右から左へだだ漏れしてしまうのである。
「数学とコンピュータ」は,このようなフィルタを取っ払い,字数制限いっぱいに知識を詰め込んでしまったため,ワシみたいなバカは一読してもそれを把握できず,何度も読み込まなければならない本になってしまったのである。なので,「話題の繋がり」を理解できるようになったのは三十路過ぎた頃になってしまった。不幸なことに,現在の出版状況はこのように「手強い」本の版を長期に渡って保有することが出来ず,ようよう評価が定まって来た頃には絶版になっていたりする。
本書は30年前に出た単行本を文庫化したものであるが,さすがに一般読者を相手に書かれた短いエッセイが主体なだけあって,ワシがだだ漏れさせてしまった「話題の繋がり」を気にすることなく読むことが出来る。・・・とはいえ,π(円周率)の計算など,ワシにとっては既知の話題ならともかく,「正多角形のタイル張り」なぞは,一日潰して絵を描きながら「えーっと,これがこう繋がって・・・」とやらないと,ちゃんと理解できたとは言えそうもない。この手の結構歯ごたえのある問題も含まれていて,しかもコンピュータと数学との結節点上にあるものが多いのは,やっぱり一松らしいよなぁ,と感じる。
ヤノケン(矢野健太郎)の「角の三等分」も先頃,ちくま学芸文庫に収められたが,そこに現代代数学からの長い注釈をつけたのも一松だった。そういや,20世紀の終り頃,岩波から応用数学のシリーズ本が出ていた時に,執筆者の一人が予定していた分が出せなくなり,急遽,引っ張り出されたのも一松だった。中国に出張中だった一松の所に電話がかかってきて大いに慌てた,というエピソードを自身が前書きに書いていたが,困った時には一松に頼め,というのは今も続く出版界・学界の伝統のようである。まあそれだけ懐が深く,書いたものに信頼がおける,という証でもある。最近はあの「うんうん」があまり聞けなくなってちょっと寂しいが,執筆活動ではまだ当分引退ということはありそうになく,心強い限りである。すいませんが,もう少しこのバカにも理解するための時間を頂きたく,末永くお付き合いさせて頂きたいと思う次第である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-10-459802-1, \2300
星新一のショートショートと初めて出会ったのは,多分,小学生高学年か中学生の頃である。教科書に載っていたものを読んで嵌ったのか,別の文庫か単行本で出会ったのかは定かではないが,旭川の中学校に転校してから,そこの図書館に所蔵されていた新潮社の星新一作品集全一八巻(ということも本書にはちゃんと書いてある)を読破して以来,1001編達成の少し前までは,文庫や単行本を結構集め,読んでいたという覚えはある。
「1001編達成少し前まで」というのは,さすがに作品が面白くなくなってきたことと,高校生の頃に筒井康隆に嵌ってからは,「おとぎ話になんてケッ」という傲慢な読者になっていたことによる。「面白くなくなってきた」という感想はワシだけではなくて,多くの読者,編集者,SF作家仲間にとっても同様だったようで,1001編達成の前後あたりの作品を読んだ筒井は「ひゃぁ,枯れてしまったなぁ」と書いていた。もちろん「枯れた」というのは褒め言葉でもあるが,「こんなんで読者がついてくるのか?」という疑問を呈した言葉と取った方がいいだろう。
それでも,端正で難しい言葉を使わない文章を短くまとめた星の作品群,特にデビューから十数年間ぐらいのものは,年少者にはとっつきやすく,昔見離したワシみたいな野郎でも面白いと思えるものも少なくない。新潮文庫,角川文庫,講談社文庫に収められている彼の作品集が今でも版を重ね続けているのは,それだけの力量のある,特異な作家であった証拠である。本書はそんな星の生涯を丹念に追った,超力作ノンフィクションである。・・・の割には一部のSF愛好家を除いてあんまし話題になってないようだが,ああもったいないもったいない。ワシは560ページを越える分厚い本書を金曜日に東京で購入し,掛川に帰宅してから一気に引き込まれて土曜日の夜には読破してしまった。それぐらい「面白い」評伝なのである。
ノンフィクションは,フィクションよりも著者の人柄や生きる姿勢が露わになりやすいとワシは思っている。対象に接する態度や資料調査の手法,事実をつなげる文章には,ごまかしが効かない著者本人が出るものだ。かつて歴史を扱った新書に,もんのすごく嫌みったらしい学者が書いたものがあったが,事実は事実として,そこにアンタの好き嫌いを満載しないでくれよ,と言いたくなってくる(人のことは言えないが)。
だからワシは森まゆみの書いたものは好きなのである。対象に対して愛情を持って接していることがよく分かる文章は,読者を和ませるものだ。もちろん,それ故に相手のプライバシーに踏み込むことが出来ないこともあるのだろうが,何でもかんでも下世話に暴露すりゃいいってもんでもないだろう。適度な節度がほどよい読後感を与えてくれる,という要素も「売り物」としては重要である。
最相(さいしょう)の単行本を読むのは今回が初めてだが,森と同様,本書には星新一や彼の家族への愛情が感じられて好感が持てる。しかし,さすがノンフィクション界に一石を投じた著作を生み出してきただけのことはあり,事実は事実としてそうとう詳細に調べあげており,しっかりと読者に提示してくれている。その例が,先に挙げた1001編間近の星の作品への評価であり,新一があれだけ擁護し続けた父・星一の事業家としての評価であり,そして,1001編に達成した後に星新一が懊悩した,自分の業績への世評(と,ここでは誤魔化しておく),である。特に最後のものについては,正直非常に驚かされた。筒井が直木賞を取れなかった事に対してウダウダ言い続けたことは有名だが,星はそれを公表しなかった分,悩みは相当深かったというのは意外であった。そーゆーものとは縁なく超然としているモンだとばっかり思っていたのである。この辺りの記述は・・・本当に読んでいて胸が痛くなってくる。そうかぁ,星さんも苦しかったんだなぁ・・・。
今の時点では当然の事ながら,この先当分は,そして多分,将来に渡っても本書は人間・星新一全体を知らしめてくれる第一級の資料であり,とびっきり面白いノンフィクションである。何だかあんまし本屋でも扱いがよろしくなかった(丸善丸の内オアゾ店でも平積みになってなかった)ので,見かけたらささっと買っておくのがよろしかろう。まだ星新一の体温が残っているこの時代に読んでおくのが相応しい,名著であること間違いないのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-16-325690-0, \1143
なだいなだの「アルコール問答」を読んで以来,ワシはアルコール中毒という病気に興味を持つようになった。これは身近にそーゆー人がおらず,その被害にあったことがない上に,ワシが下戸であるため,罹りようもない病気であるが故に他人事として気楽に受け止めることが出来た,という無責任な事情があったためである。その後,某大学の某教授は完全にアル中で,ろくな講義も出来やしない(アル中でなくてもそんな大学教員はゴマンといるが(含ワシ)),という都市伝説らしき風聞を耳にしたり,アル中で入院経験のある中島らもや吾妻ひでおの作品を読んだり,小田嶋隆さんがそれに近い状態にあったらしいことを告白ったのを読んだりして,ああ,結構はまっちゃった人って多いんだなぁ,いうことを感じるようになった。
まあ,アル中になっちゃった原因というのは一概には言えないものだろうが,小田嶋・中島・吾妻の3人の書き手に関しては,彼らが書いたものを読む限りにおいては共通する性格的な因子があるように思えるのだ。
それは「八つ当たりエネルギー」の欠如である。
人間誰しも肉体的・精神的に攻撃されれば,大なり小なり防御態勢を取り,反撃を行ったりする本能を持っている・・・と思うのだが,どうもこの3人にはそれが薄いように感じる。多分,彼らは内省的なインテリであるため,自分が受けた攻撃に対して反射的に行動するより先に,頭であれこれ考えてしまうのであろう。そして,一定の合理的な結論が出るまで思考を続け,結果的に反撃をしないか,しても非常に弱いものになってしまうのではないだろうか。実際,ワシはこの3人の書いたものを読むと,時折,イライラしてしまうことがある。これはワシが全然内省的でない本能と脊髄反射だけから出来上がっているバカだからであろう。そーいや,一度,三島親父に「あんたは強いね」と言われたことがあるが,ありゃ褒め言葉じゃなくって,「あんたはバカだ」の同義語だったのだな。あ,また段々腹が立ってきた,今度どうしてくれよう・・・こういう反動的エネルギーに欠ける人が,なまじアルコール耐性を持っていると,いつの間にやら連続飲酒状態になるんだろうと想像している。
だから,怒りのエネルギーに満ち溢れている,常に頭から湯気が上がっている人というのは,高血圧でぶち切れることはあっても,アルコールに逃避したりする必要が全くないのだろう。なだいなだしかり(医者がアル中ではどうしようもないが),藤原正彦しかり,小林よしりんしかり,佐藤愛子しかり,小谷野敦しかり(下戸のせいもあるだろうが),そして我が筒井康隆もまたしかり,である。そして彼らは,高血圧の持病がない限り,憎まれっ子,ならぬ,怒りっ子として,元気に長生きするに違いないのである。そーいや,佐藤も筒井も70越えているんだよな,確か。それでもまだハイペースで新刊を出し続けているんだから,全く持って感心する。
その筒井の最新長編が本書である(やっと本題に入れた)。この小説が連載されている時から,これは「大いなる助走」の平成版だ,という下馬評をよく聞かされたものである。確かに,今の出版不況(出版点数が多すぎて,一冊当たりの平均販売部数が減っているだけの現象なんだが)と現代文学の迷走ぶりがテーマになっているから,同じく同人誌(といってもコミケのそれではなく,昔からの地方文芸誌)から文壇デビューした男を主人公にした前作と,似ているところはある。が,「助走」は後半,かなりミステリー仕立ての部分があるのに対し,本作は真面目に(著者なりに,だが)「現代日本文学の状況を鋭く衝」(単行本の帯のあおり文句)いているところが,文学論争や差別語論争をしてきた風格を漂わせるものになっている。
もちろん,さすが筒井だけあって読者を引き込ませる力量は健在であり,「銀齢の果て」と同様,章分割が皆無の連続性は,巨船というより長いジェットコースターに乗せられているような感覚にワシらを陥らせてくれる。現代文学とやらに全く疎いワシでも,「ああ,そーゆーことが問題になっているのか」と教えてくれる親切さも備えているから,普通にエンターテインメントとして楽しむことも可能である。
だが,「敵」もそうだし「銀齢の果て」もそうだし,本作もそうなのだが,やっぱり筒井も年を取っているんだなぁ,という感想は持ってしまった。これらの近作には,四十路代に大量に書き飛ばした(という言い方は,推敲に推敲を重ねる著者に対して失礼だけど)ドタバタ短編のような,突き放した鋭さが感じられないのだ。だから,結末を読んだ後に何かホノボノとしたものを覚えてしまう。それはもちろん良いことではあるんだが,これはやっぱり「老成」と呼ぶべきものなんだろうなぁ,と思ってしまうのである。
ま,肉体的にはまだまだ役者としても活躍できるようだし,足腰が立たなくなったら,芸能界のあれこれを語ってくれると予告しているし,根性の悪さも相変わらずである。高校生の時に全集を読破して以来,その魅力に取り付かれたワシとしては,是非ともこの反動的エネルギーを持続させて頂きたいと,切に願っているのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-480-88805-1, \1900
日本の戦後マンガは手塚治虫が開拓し,切り開いていった,という認識が定着して久しい。そしてそれは殆ど間違ってはいない。但し,それは大阪の出版社から出した単行本「新宝島」(1947年1月発行)がブレイクし,手塚が流行作家になって東京へ拠点を移してからの話であって,この実質的なデビュー作に至るまでの歴史は殆ど語られてこなかった。最近,ようやく夏目房之介らの研究グループによって,戦前の日本マンガは,子供向けの作品もかなり芳醇なものであったことが明らかにされつつある。BSマンガ夜話の手塚治虫スペシャル(第22弾 2002年4月1日~3日)において,夏目は「手塚治虫は,戦前の日本マンガをたくさん摂取していて,それを土台にして戦後の活躍があった」という趣旨の発言をしていたが,同時にその「土台」を我々が簡単に確認できない状況にある,ということも述べていた。
本作は,「新宝島」の,もうひとりの生みの親である酒井七馬(さかいしちま, 1905-1969)の伝記であると同時に,緻密な資料探索と取材に基づいた,戦前から戦後にかけての日本マンガとそれを取り巻く状況を知らしめてくれる傑作ドキュメントである。これを読む限り,手塚治虫が一新していった戦後マンガとは別の,戦前マンガの流れを酒井七馬は死ぬまで抱えていた,ということがよく分かる。そして,殆ど都市伝説のように語られていた酒井の晩年の死に様が,どうも誇張されすぎている,ということも明らかにしている。確かに独身の老人が自宅で衰えていった,という状況は第三者には悲惨に見えるものだが,貧窮のうちに死んでいった,というのは言い過ぎであるらしい。
本書を読むまでワシはそもそも酒井の名前を殆ど知らなかった。従って,当然,「新宝島」の原案・構成にクレジットされていた酒井の名前が途中で消え,最終的には手塚の名前のみが残った,という事実も本書で初めて知ったのである。大体,共著者がいることだって,殆ど知られていなかったのではないか。その理由は他ならぬ手塚が,オリジナルに基づいているとはいえ,後年,完璧にリライトしてしまった「新宝島」(手塚治虫全集に収録されている)の発行しか認めてこなかったからである。著者の言葉を借りれば,これは手塚による「抹殺」と言えるものである。そして酒井七馬の名前も忘れ去られていった訳である。
しかし,本書に収められている酒井七馬の画業の素晴らしさは驚嘆に値する。戦前,アニメーターとしてスカウトされて腕を上げていき,戦後もカットや似顔絵の仕事をしつつも,赤本,紙芝居,絵物語,そしてまたアニメ・オバQの絵コンテ・・・と,一流と言えるほど突き詰めたものは少ないとはいえ,高水準の絵描きであったことは間違いない。これだけの腕があったからこそ,「新宝島」の共同執筆において,手塚の才能を一気に開花させることが出来たのであろう。そして同時に,プライドの高い手塚の神経をいらつかせる作品にもなってしまったのであろう。その結果,知名度の低さも手伝って,酒井の名前は手塚によって抹殺されることになったのである。
そう考えると・・・才能のぶつかりあいという奴は,皮肉なモンだなぁ,と思えてならない。ぶつからなければ「新宝島」は存在しなかったし,ぶつかったが故に後にしこりを残す。酒井の「諦観」癖がなければ,間違いなく,この作品に関してゴタゴタが発生し,手塚の名を汚す最初の大事件になったであろう。
ドキュメントというと,根ほり葉ほり情報をほじくり出さなければ優れたものにはならないから,どうしても著者の悪意がにじみやすいところがある。しかし本書にはそれが全く感じられなかった。それはもちろん著者の人徳によるものが大きいのであろうが,諦観の人・酒井七馬のサバサバした性格と,グロテスクなものを目指してもどこかユーモラスな雰囲気が漂う彼の画風に寄るところも小さくない筈だ。酒井の晩年はやはり一抹の寂しさは残るものの,何となく,こういう人生もいいかな,と思えてくるあたり,ひとりものとしての共感も手伝っているんだろうな,きっと。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-22049-5, \800
酒井順子が「負け犬どもよ,仕事に生きよ」と高らかに負け犬党宣言して以来,世の負け犬,つまり仕事持ちの独身女性達は,マルクス酒井の教えを忠実に守り,身の危険も省みず,勝ち組への道を歩んでいる。で,以前より更に負け犬達から相手にされなくなったオスの負け犬どもは,相変わらず日本の少子化に拍車をかけつつ,自らの不満をコメントもトラックバックも受け付けない無愛想なblogに書き付けるしか手がなくなってしまったのである。
菅野彰(すがのあきら)と立花実枝子(たちばなみえこ)はそんな負け犬(と言うにはまだ若いのかな? 特に後者は)党の忠実なる突撃隊であり,正に身を挺して,この日本の社会問題に深く切り込む名エッセイをものにしたのである。この僥倖に接することのできたワシは,是非ともこの感動を全世界の日本語を解する方々と分かち合うべく,本記事を配信することを決意したのであった。
日本の中小規模の市町村中心街における商店街の衰微は,地方と大都市との格差を象徴する視覚物としてメディアに取り上げられることが多い。実際,ワシが現在住んでいる静岡県西部の人口10万程度の小都市でも,ここ十数年来,駅前商店街の寂れ方といったら凄まじいものがあり,休日の昼間の寂しさといったら,オスの負け犬の寂しい神経を逆なでしちゃう程なのである。そこを散歩しながら,ああこれが有名な「シャッター通り」という奴なんだな,と妙な感心をした覚えがある。
ところが,平日昼間に有給休暇を取って,同じ商店街を歩いてみると,これが何と,死んだと思っていた商店の半分ぐらいは煌々と明かりをつけ,営業しているではないか。かつてのスーパーらしき廃墟・・・と思っていたバラックが主婦の店しているのを見ると,まるで大東亜戦争後の廃墟から立ち上がって活況を呈している闇市のようである。つまり,殆ど瀕死状態と思われていたこの商店街はまだ半死半生状態であり,いまや絶滅危惧種たる専業主婦のライフスタイルに合わせて営業していたのであった。この21世紀のグローバリゼーションが進みつつある現在において,かようにドメスティックかつクラシカルな商売がかろうじて成立しているのは,いかなる事情によるものなのか?
一言で言うと,彼ら商店主は
彼女らは,かような生死不明の飲食店の生死を決定すべく,立ち上がったのである。攻・・・じゃないBL小説家・エッセイスト・菅野彰,受・・・じゃない漫画家・立花実枝子は,ウンポコの締め切りを間近にしてエッセイの企画に悩み,友人・月夜野亮に助言を乞うたのである。そして,月夜野は恭しく御宣託を彼女らに下したのだ。
恐ろしい・・・何と恐ろしいことをするのだ,この負け犬共は。ワシのような小心者のオスの負け犬は,このような行為が蔓延し,日本の少子化と地方商店街の衰微が更に進展しないことを祈るだけである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-86167-146-9, \857
アマゾンの書評を見る限り(2007年3月16日(金) 20:29時点),本書に対する評価はまっぷたつに分かれている。支持する向きは本書が「Google八分」なるものを公の場にさらしたことを評価し,そうでない向きは著者の一方的な感想を書き連ねただけの本だと批判する。
ワシの結論は,
著者は,その筋では有名なサイトである「悪徳商法?マニアックス」を主催する管理人beyond氏である。サイトの文面や本書の記述を読む限り,飄々とした2ちゃんねるのひろゆき氏とは正反対の熱血漢とお見受けする。そして,詐欺的な商売をする輩を糾弾する姿勢,度重なる圧力や抗議にもめげず,サイトを維持し続けている姿勢は尊敬に値すると,これはイヤミでもなく褒め殺しでもなく,そう感じる。
そして,本書を書くきっかけとなったGoogle八分は,この著者のサイトの情報に関連して起こったものであった。実際,「悪徳商法?マニアックス」でGoogleると今でも(2006年3月16日(金)現在),削除された情報がある旨が検索結果の下に表示される。どうも,著者のサイトにある某詐欺的商法の情報に対して抗議を受けた事による「Google八分」であるらしい。
著者はGoogle日本法人への問い合わせを行い,名誉毀損の疑いありと判断されてしまったことを確認したが,どのように該当ページを修正すれば再掲載されるのかを問うてもはかばかしい返事は得られない。佐々木俊尚氏がこの件に関してGoogleにインタビューを行った結果,Googleとしても判断を迷った削除であることは判明したものの,上記のように,今現在もGoogle八分状態は変わっていないのである。
本書にはそれ以外のGoogle八分事件が紹介されているが,中国政府による検閲・朝日新聞による削除養成に関する報告を除けば,大部分のGoogle八分の事例は「悪徳商法?」に関連している事例である。それに気が付いたあたりから,ワシは「これは・・・自分の受けた被害を肯定する資料を積み重ねるだけの本か?」という疑念がついて回り,本書のタイトルから受けていた「Google八分問題を総合的視点から議論する書」というイメージがガラガラと崩れるのを感じたのである。
従って,
第4章の「グーグル八分と表現の自由」では,弁護士と図書館協会の方にインタビューを行っているが,ここが本書で最も議論が開かれている部分である。ここがなければワシは本書を「Google八分が理解できる本」として紹介することはなかった。そして,このお二人の話を総合して
・Google八分の問題は,そもそもサーチエンジン市場におけるGoogleの占有率が高いことに起因している
・Googleは情報を削除する基準が曖昧であり,それ故に「表現の自由」を犯す危険が高い
・Google八分そのものが悪いというのではないが,可能な限り,情報は検索・閲覧できるようにしておくべきである
という,かなり多くの賛同を得られるであろう主張を取り出すことができるのである。逆に言えば,この辺を立脚点にして議論を進めていけば,Amazonの書評のように評価が分かれる本にはならなかったのではないか。更に逆に言えば,このような客観的な視点が少ないということが,本書の一番の特徴であり,好き嫌いの別れるところなのであろう。
個人的には,「そもそも何でGoogleだけが情報削除を叩かれるのか?」という疑問が拭えないのだ。それを言い始めると,Yahoo!のカテゴリに自分のサイトが登録されないなんてことは日常茶飯事なのに,何で問題にならないの?,という反論がされるに決まっている。実際,前述の最初の論点に挙げたように,確かにGoogleのシェアは高くなってはいるが,アメリカでも約47%,日本ではトップがYahoo! Japanの約62%で,Googleは本家とあわせても28%に過ぎないという調査結果がある。現状,日本では,ことさらGoogleの「八分」だけを問題視する客観的理由は薄弱なのである。中国の有力サーチエンジン「百度」が近々日本にも上陸するらしいから,今のうちに独占禁止法的な枠組みを議論しておく必要はあろうが,基本的には私企業に対して,商売を度外視して「表現の自由の番人たれ!」とせっつく主張がどこまで強制力を持っていいのか,ワシにはよく分からない。
してみれば,本書はやはり自分のサイトがGoogle八分されたことによる「私憤」をぶちまくための場なのであろう。しかし,全ての「公憤」は,「私憤」を種として発芽し,そこに第三者の共感を得て育っていくものである。本書は,かなりひん曲がっちゃってはいるものの,第4章の助力も得て,私憤が育った苗にはなり得ている。これがそのうち巨大な,それこそクローバルスタンダードとしての公憤の大木に育っていくのか,それとも著者個人とその周辺だけの私憤として収束していくのかは,ワシにはこれもよく分からない。
しかし,今のサーチエンジンの周辺事情に興味のある向きは,必ず読んで,手元に置いておく必要があるだろう。そして,年月が経過した後,再び本書を紐解いて,著者の主張がどのような結果に結実しているかを確認すべきである。世の中には時間でしか解決できない物事が山ほどあるが,たぶん,著者が投げかけたのも,その中の一つなのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-309-40834-7, \560
先日,浜松で開催された立川流家元・立川談志の独演会に行ってきた。チケットは数ヶ月前に入手していたが,独演会当日まで,実は少し不安であった。
家元はまだ元気だとはいえ,御年70を越えている。家元の落語を最後に聞いたのは2002年3月だったが,その時は「五人回し」を一通りやった後で,自分の落語の講評を始めたのに面食らったものだ。最近の家元の落語は抽象絵画のようだ,というのは唐沢俊一の評だが,この独特のスタイルは確かに「芸術」の域に達していると言えると同時に,ワシのような素朴かつ保守的な,ふつうのスタイルの落語を聞きたい客にとっては難解な「抽象絵画」のようなものになっているとも言えるのである。
今回聞いた家元の落語は,更に抽象絵画に近づいていた・・・いや,もうこれは「抽象」そのものである。中入りを挟んで二席やったのだが,一席目は先頃引退を表明した圓楽の批評をした後で,世界のジョーク,それもかなりキツイのからハイブロウなものまでをマシンガンのように乱射する。二席目は少し短めの「らくだ」だったが,割とふつうに演じているな・・・と安心していたら,下げの後,また落語の批評が始まったのである。それはいいのだが,家元が尊敬する志ん生のイリュージョン的くすぐり,「へびが何でへびって言うかというと,なんてこたぁない,あれは昔,「へ」といったんですな。「へ」ですから,「びっ」ていう・・・だから「へび」」,で大爆笑を取ったかと思う間もなく,切々とした人情を語り出す。笑いの天井から悲しみの谷底へ突き落とされるような感覚に陥って戸惑い,自分の反応の鈍さをつくづく思い知らされた。「俺は年寄りの慰み者みたいな芸人とは違うからな」という言の通り,確かに「今」を感じさせるものになってはいるものの,家元が褒めちぎる弟子・志の輔のオーソドックスな感情表現とは正反対の難解さは,ワシにとってはちょっと縁遠いものかな・・・と,独演会開催前に抱いていた不安の一部が的中し,複雑な思いで独演会の会場を後にしたのであった。
何故長々と落語の話をしたのかというと,本職イラストレータ,たまーに漫画家の本秀康の傑作を集めたこの「アーノルド」を読了し,家元の落語を聞いた後と似た感想を持ってしまったからなのである。
本(もと)のマンガ,特に本書に収められた短編は,いずれも同じ特徴を持っている。
まず,作品の舞台やキャラクターは,乱暴に言うと「ガロ系」,これは杉浦茂のキッチュさと共通するものがある。脳が6個ある六頭博士や,金星人の金子君や伝吉,50人の息子がいる岡田幸介・・・等々。奇妙奇天烈な奴らばかりが登場する。
しかし,ストーリーで展開されるのは,とてもベタな感情表現だ。自分が作ったロボット・アーノルドに愛情を抱く六頭博士と,とてもいい奴なアーノルドとの心の交流の切なさ,岡田幸介が50人の息子を持つに至った経緯,山田ハカセの作ったロボット・R-1号がスクラップにされるまでの心の揺れ・・・,キッチュなキャラクターたちがいるために誤魔化されるが,一昔前のストーリーマンガには当たり前にあった「感動」がそこにあるのだ。
じゃあ,感動ものとして読むことが出来る作品なのかというとさにあらず。最後のどんでん返しは見事であり,シニカルでもある。杉浦茂をもっと緩くしたような可愛い素朴な絵柄であっても,大人の鑑賞に十分堪えうるものに仕上っているのだ。
しかし,やはりマンガに対しても保守的なワシは,笑うべきキッチュさと,感動すべき表現とが混在したこれらの作品に対して,どのような感情を抱くべきなのかがよく分からないのである。面白いのは確かだし,ストーリーや場面作りは今風だから,間違いなく「今」の作品なのである。なのであるが,もしかすると先を行きすぎているのかも知れないのだ。そう,この方向で進化していくと,家元落語に通じる「抽象」性が強まってしまうのである。今でもワシにはその香りが感じられるが,本書レベルであれば,まだ純粋に感動マンガとして,当方が幾分か努力すれば,楽しめるのである。
うーん,ワシも年だな,と思うと同時に,本のようなマンガが広まっていくことで,日本のマンガも変わっていくのだろうな,と少しセンチメンタルになってしまうのであった。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-480-81484-5, \1500
今日はCD-Rを243枚焼いた。
自慢するわけではないが,私の勤務するこの職場で,CD-Rを焼ける光学ドライブを持ったPCを12台所持している研究室はウチだけのはずだ(違ったらごめんなさい)。もちろん,これらのPCはCD-Rを焼くために揃えたものではない。全ては研究のため,高性能計算という崇高な仕事を遂行するための機械である。高性能なPCが必要であったために,光学ドライブまで「たまたま」高性能になってしまっただけのことである。
その貴重なPCを,CD-Rの大量焼きのために利用しようと言うのだから,当然,彼らの怒りといったら尋常ではない。
「なんてことを」
「計算なら2スレッドまでバリバリに2.8GHzの性能を出せるのに」
「そんな円盤にレーザーを照射するために俺たちはここにいるんじゃない」
「PC権侵害だ」
「無体な」
「DVD-Rならまだしも」
彼らの叫びは当然ではあるが,当方にも都合というものがある。ここは電源管理者の特権を振りかざして押さえつけねばならない。
「うるさい,Intelが失敗作と烙印を押したCPUを載っけているくせに,人間並みに喚くんじゃない。ぐずぐず言うと,電源ケーブル引っこ抜くぞ」
540MBのISOイメージをGbE経由で奴らのローカルハードディスクに転送し,CD-R焼き作業を開始する。それでも彼らは黙っていない。
「熱い熱い熱い」
「たかだか7千円のドライブのために身を粉にして働かされるなんて」
「せっかくのデュアルコアCPUなのに,それが全く生かせない仕事をさせるとは」
「ドライブが逝かれたら交換してくれるんだろうな」
「PC権侵害PC権侵害」
「エロDVDならまだしも」
6台のPCをほぼ切れ目なく使いこなして3時間後,ようやく243枚のCD-R焼き作業は完了した。うち1枚はエラーが出て読み取りできない失敗作となった。まあ0.4%程度のエラー率は仕方がない。彼らのせめてもの反逆心なのだろうし。
「よくやったな,おまえたち」
お褒めの言葉にも反応しない,6台のPCが静かに電源ファンの回転音のみを響かせて,鎮座している。
・・・というのが,所謂「妄想系」と呼ばれるエッセイらしい。三浦しおんのそれは絶対BL由来のものだろうが,端正な(見たことないけど)知性の持ち主の翻訳家・岸本佐知子の「妄想癖」はどこから来たものなのだろうか? トイレットペーパーに何かトラウマでもあるのだろうか? そもそも「べぼや橋」とはどこにあるのか?
読めば読むほど疑問が渦巻く謎なエッセイである。第一弾も面白かったが,「ちくま」連載のこれも負けず劣らず素敵である。
ところで,現在も連載中の本エッセイのタイトルは「ネにもつタイプ」である。「ネ」から「ね」への変更に,どのような意味があるのだろうか? ・・・と,疑問は尽きない。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-480-42310-8, \580
本書は,瀬戸内が私淑していたロシア文学者・湯浅芳子(1896~1990)に関する短いエッセイをまとめたものである。ワシは「ちくま」連載中からちょくちょく読んでいたが,このたび文庫化されたので早速買い求めて再読したという次第である。
湯浅という人は,まあインテリにはありがちではあるけど,レズビアンだったということを差し引いても,相当変わった人である。彼女の人生全体を貫いた姿勢こそ,確かに本書のタイトルになっている「孤高」という形容詞がぴったりであるが,その性格はかなり「狷介」,つまりキツイのである。ストレートに他人の論評をするところなぞは,まあ何と言うか,「図太い」瀬戸内のような人だからこそ耐えられたのであって,日和見的に生きている一般人にはとうてい付き合える相手ではない。
ただ,そういう人に限って,どういうわけか,そのようなキツイ自分を受け入れてくれる度量のある人間をかぎ分ける嗅覚が発達するらしく,湯浅は最晩年に至るまで,かいがいしく自分の面倒を見てくれる友人知人に事欠くことはなかったようだ。このあたりは,破滅型の人間にはない,本能を抑えきるインテリジェンスを感じさせる。周囲にとってははた迷惑ではあるが,一本筋の通った哲学を護持できたのはそれ故なのであろう。
文学史に疎いワシでも知っている作家らと親交のあった湯浅の人生と恋愛遍歴の一端を教えてくれる貴重な資料であると共に,「何故こんなメイワクな人がこの世に存在するのだろう?」という疑問を解消する一助になりそうなエッセイ集である。瀬戸内の法話が今も人気を博しているのも,湯浅のような人との交友の蓄積があるからなんだろうな,きっと。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-66140-8, \580
どうもこの先きちんとしたぷちめれを(「きちんとした」もんあったのかという突っ込みは聞かないぞ)書くのが難しくなりそうな感じなので,この際,お蔵出しを兼ねて,昔から愛読している作家の作品を紹介することにしたい。
その第一弾としてご紹介するのが,えみこ山である。「えみこさん」ではなく「えみこやま」と発音する。昔風の言い方をすれば,典型的なやおい作家,ということになるのだが,今やBLとか耽美とかモーホー(古いか)という,区分があるんだかないんだかワケワカのジャンルが勃興しているから,もはやかつての「やおい」という単語が持っていた雰囲気を伝えられる時代ではなくなっているのかも知れない。「やおい」で通じるような方々は既にオジサン・オバサンと呼ばれる歳になっている筈だ。
「やおい」に関しては,例えば三崎さんの記事とか,Comic新現実 Vol.4の佐々木悦子「やおいの起源概論」を参照して頂きたいが,思いっきり簡単かつ乱暴に言うと,「美少年( or 美青年)がいい雰囲気になってあーだこーだする」,主として女性作家によるフィクションであり,1970年代後半から商業作品・同人誌上を席巻,今のBLというジャンルを形成する原動力となった一大ムーブメントでもあった。
その中で,同人誌から商業誌へとデビューしていくものも多く,メジャーどころとしては坂田靖子から始まってCLAMPまで多数挙げられる。えみこ山も小説担当のくりこ姫と合同でサークル「えみくり」を主催し,かなりの人気サークルになったが,商業誌デビューは1990年代に入ってからと,かなり大器晩成的にデビューした漫画家である。
ワシとえみこ山の初邂逅はほぼ商業誌デビューの時期と同じである。ただ,初めて手に取ったのは,えみくり発行の同人誌で,くりこ姫の方がメインの旅行記「中国トラベルトラベリング」であった。これはまだ手元にあるので,写真を貼り付けておく。
この中にえみこ山もカットや短いエッセイマンガを寄稿している。
確か本書は即売会の会場ではなく(壁際サークルで近寄るのも憚られたと記憶する),金沢のブック宮丸で入手した筈である。就職早々,能登半島のど真ん中へ左遷されて腐っていたこともあって,給料はたいて様々な少女漫画を買い漁っていた時期があり,その頃に購入したものと思われる。ワシが持っているのは1992年の奥付がある奴だが,着任したのがちょうどその年であった。
で,すぐに嵌った,という訳ではない。くりこ姫のエッセイはそれなりに面白かったが,入れ込むほどのこともなく,えみこ山の絵に好感は持ったものの,ストーリー仕立てのきちんとした作品ではなかったため,これも追っかけるほどには至らなかった。ファンになったのは,新書館で単行本が出る前に,アンソロジーとしてまとめられて商業ルートに乗ったものを読んでからだと思う。それでも通販をしてまで手に入れたいという程ではなかったので,しばらくは疎遠になったものの,1996年に新書館から初単行本「抱きしめたい」(現在は品切らしい)が出て,商業単行本のみであるが,追っかけとなったという次第である。
以来,ずーっとえみこ山の単行本が出るたびにgetしているのだが,あんまり人に勧める気にはならないのだ。何故かといえば,これはあとり珪子の作品にも共通しているのだが,「ヌルい癒し系」でカテゴライズされそうな感じがしているからである。まあ,えみこ山当人も「男の子同志で悩みもせずにラブラブ」(「ごくふつうの恋」1巻あとがき)する作品だと言っているぐらいだから,そのように一括りにされたとしても怒りはしないと思うが,愛読者からすると,それだけでは済まされない魅力を全く無視した暴論であると言わざるを得ないのである。
大体,「ヌルい」作品ばかりかというと,そうではないのだ。最近の商業作品にはその傾向が顕著だが,同人誌に載せた作品群には結構感情を揺さぶられるものが見られる。例えば新書館刊行の第二弾作品集「月光オルゴール」に収められた表題作は,ゲイカップルにおける家族愛をテーマとした大河ドラマっぽい作りの大作だし(羅川真里茂の「ニューヨーク・ニューヨーク」より短いけど),続く第三弾の「約束の地」は「泣けるやおいマンガ」の筆頭だと思う。絵の雰囲気が1970年代風の,まだ基礎がしっかりしていない黎明期の少女漫画っぽいものであるので,精密な描写を伴うべき場面はかなり弱いものになってしまうが,物語全体に漂う雰囲気は坂田靖子によく似ていて,「空気」を伝えるには適しているものである。
たぶん,えみこ山は正統的な少女漫画,それも「やおい」が成立する以前から培われてきた「時代の空気」を会得していて,それが自分の生理とぴったり一致しているが故に,そこから外れるような作品を描くつもりは全くないのだと思う。この頑固さは夢路行にも共通していて,彼女の場合は商業的に干されていた時期においても,同人誌で全く商業作品と変わらぬテイストの作品を描き続けていたぐらいである。同じやおい市場から登場したCLAMPとはその点全く異なっている。これはどっちが良い悪いの問題ではなく,プロとしての資質と姿勢の違いであって,CLAMPのようにふるまえば必ず売れるという保証もないし,えみこ山や夢路行のようにしていればメジャーになれない,という訳でもない。
・・・なんだけど,このえみこ山の「成長のなさ」加減は,もう何というか,呆れるという他ない。これは褒め言葉でもあると同時に,もうちっと新機軸を出してくれないかなぁ,という希望でもある。本作は売れない絵描きのチョンガーとその2人の息子たちが主人公の長編「懐疑は踊る」の最終巻であるが,ミステリーの香りを漂わせているにも関わらず,その謎解きの部分がよく分からないまま終わってしまっているのである。その香りは独特の雰囲気にマッチしていていいのだが,描写力(説明力)の欠如がワシのようなオジサンうるさ方には残念に思われるのである。
長く活躍を続ける作家に対しては,「昔の方が良かった」という意見が必ず出るものである。しかし,「マンネリ」を続けるにはそこに芸がなければならず,商業作品である限り,エンターテインメントとして成立するためには変化をつけ,退屈になってはいけないのだ。えみこ山の場合,その点がちょっと気がかりではあるが,このオールドテイストは日本漫画界の天然記念物として保存しておくべきものであるとも思うのだ。「変わって欲しい」ものと「変わって欲しくない」ものを同時にかなえることの難しさをつくづく思い知らされる,アンビバレンツな感情を引き起こす貴重な作家,それがワシにとってのえみこ山,なのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06336-6, \740
本書に関してはぷちめれを書くのを当分控えていようと思っていたのだが,著者本人が自身の掲示板で愚痴っていたので,ちょろっとだけ「途中経過」としての感想を述べさせていただく。
武田が
「猫の額のような自分の庭の広さに合わせてしか考えを遊ばすことが出来ないせいで、書かれているものとは違うものを読んでしまっているとしたら書き手としてはやはり残念だ。自分の尺に合わせて物事を理解してしまう悲しさはぼくも常に打ちのめされていることではあるけど」
と,blog等でなされている本書の批判に対して述べているけど,ワシも含めたそいつらは基本的には
本書を読んでいて一貫して気持ち悪さを感じたのは,「公共性」に関する定義が,ワシも含めたバカども分かる形で示されなかったことである。それも第6章「「非国民」のための公共放送」を読んで少しは解消されたものの,比較対象となっているBBCの運営方法等についての予備知識がさっぱりなかったため,武田が理想とする「公共性」の定義を,その具体例や反例も含めて自分なりに整理して把握することができなかったのである。もちろん,参考文献に挙げられている蓑葉信弘の本でも読めば何とかなるんだろうが,イージーに薄い新書でも読んで楽をしようと考えているワシも含めたバカどもにはちと荷が重い。たぶん流動性も込めて,理想とする「公共性」を追い求めるベクトルの方向にそれが見えてくる,という"GNU is Not Unix"みたいな定義なんだろうが,それもかなり怪しい理解の仕方であろう。だから,「武田の言う理想的な「公共性」って何なんだ?」という問題意識を持って,何度か本書にチャレンジしてみる必要があると感じているのである。
ただ,「NHK問題」というものがかなり根の深い,この「公共性」というものに根ざしたものであり,それ故に議論が錯綜してなんだか訳の分からない方向に流れがちである,というものであることは何となく分かった・・・ような気がする。その問題意識を持たせてくれただけでも,まあ740円の価値はあったかな,と勝手に結論を出しちゃってるんですけど,基本的にバカなんで,このぐらいしか分からなかった,と言うだけのことなんである。営業妨害になりそうな中途半端なものを流しちゃってすいません,武田さん。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-129551-4, \438
東海村のJCOで日本初,いや世界でも初めてという臨界事故が1999年9月30日AM10:30に発生した。事件のあらましは,例えばWikipediaの記事を参照されたい。
事故直後に作業に当たっていた3人が被爆し,そのうちの1人が事故から83日目に,もう1人が211日目に死亡した。本書は,前者の治療描いたNHKのドキュメンタリー番組を作り上げた取材班が著したものである。
この事故については,ワシが静岡に移った直後に起こった事件だったので,発生直後の報道はよく覚えている。政府も非常事態体制で臨んでいたし,チェレンコフ光を発した沈殿槽の臨界状態を停止させるために,政府から派遣された学者がJCO職員に被爆覚悟の作業を行わせたことも後の報道で知った。この辺りの事情の是非についての詳細は承知していないが,その後,直接この事故の原因となる作業を行っていた3人が治療を受けているということ,そのうち2人が重傷ということを聞いたときには,正直,どう反応して良いのか困惑したものである。本書のP.53の記述を読むまでは,どのようにこの83日後に死亡した方に対して「同情」していいものか,全く分からなかった。
はっきり言って,この事故は,この3人の作業によって引き起こされたものである。臨界事故が発生しかねない作業を命じたJCOの会社としての責任は当然第一に考えられるべきものだが,この作業がなければ,そしてそれが「臨界」に達することがなければこの事件もなかったのだ。つまりは「加害者イコール被害者」という図式が成立しているのである。この83日後に亡くなった方は「(事故が起きた)転換試験棟での作業は今回が初めてだった。上司の指示に従って作業を進め,臨界に達する可能性については,まったく知らされていなかった」(P.53)ために,このような事態を招いた,ということを読まされていなければ,ワシは本書を読了することは多分,できなかったろう。しかしそれでもワシの胸の内のモヤモヤは解消していないのだ。
本書の記述の大部分は,この亡くなった方の,まさしくタイトルにある通り,強烈な放射線障害によって「朽ちていく」様と,治療に当たった東大病院の医療チームの苦闘ぶりに割かれている。多細胞生物の生命現象を支える部分が破壊されて,どう移植治療や外国の専門家の助力を仰ごうにも,救いようのない事態が続発して,まことに痛ましく無惨である。それを伝えることが番組と本書の狙いであり,この目的を果たすことが出来ていることは十分認める。
認めるのだが,その上で,やっぱりワシの頭の中の「割り切れなさ」は残っているのだ。それを解消するには当然,事故調査委員会の報告書を紐解く必要があるのだろうし,いずれは読んでみたいとは思っている。
しかし,高濃度のウラン化合物を扱っている会社で,しかも臨界事故を起こしかねない作業手順が易々と実行されてしまい,それを「知らなかった」ために従順に会社の指示に従った,という事態はやはり問題である。今更言っても詮無いことだが,この時点で「何かがおかしい」という疑問が作業員に湧いていれば,事故は防げた可能性もあるのだ。放射能に関する知識がもう少し与えられていれば,防げないまでも,異議申し立てぐらいはできた可能性はあるのだ。
死者を鞭打つような文章になってしまったが,「朽ちていった命」について考えるならば,このような事態を草の根レベルで防ぐための方策,上から与えられるものではなく,自己を守るための知識を広く染み渡らせるための具体的な方法論が議論されなければ意味がない。どうしてもグローバルスタンダードという奴は,「お人好し」を食い物にしてのさばっていく傾向があり,しかも最悪の場合,知識がないばかりに人のいい人間を加害者に仕立ててしまうこともあり得るのだ。この臨界事故はまさにその典型例であり,本書はその「同情を躊躇させる被害者」を描いた,優れたジャーナリズムの力量を見せつけてくれる良書である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-741301-9, \429
本年(2006年)は,昨年のドラマ「タイガー&ドラゴン」による落語人気を引きずって,マスコミは随分と落語ブームを囃し立てていたが,実際は無風状態と言っていいのではないか。一部のマスコミ受けしている噺家は更に人気が高まったようだが,そうではない普通レベルの噺家まで「落語ブーム」とやらの恩恵を受けているとはとても思えない。ブームを当て込んだ出版もちらほら見られたが,爆発的な売れ行き,とまでは行かなくとも,数万~十数万部のセールス記録を残した本が一体どれほど存在していたのか,甚だ心許ないというのが実情ではなかろうか。
実際,寄席に行ってみると,人気者の番組が組まれていない平常時の固定客の年齢層は高止まりしたままのようだし,つまんないベテランのレベルが上がっている訳でもなく,番組が変わる度に必ず通いたくなる程の面白さはそんなに期待できない。フジテレビ提供のお台場寄席・Podcast版の司会進行を勤めている塚越アナは「寄席は当たりが3割(あれば上等)」と言っていたが,まさしくその通り。今のTVのバラエティ番組のテンションに慣らされている我々にとって,寄席はちょっとおとなし過ぎるのだ。従って,これから先の寄席の入りは元通りの低空飛行を余儀なくされると思われる。
春風亭小朝「いま,胎動する落語」(ぴあ)は,前著「苦悩する落語」の続編として今年出版されたインタビュー集であるが,落語界の将来が楽観できる状態にはないことを如実に物語っている。詳細は本書に譲るが,媒体に乗って宣伝できる売れっ子に活躍の場を広く与えつつ,若手の有望株をうまくユニット化して舞台に上げること等,つまりは常に新機軸を出し続けていく必要がある,ということを力説している。いまや,芸能界にもしっかりしたポジションを確保した小朝にしか言えない,きついけれども問題点を的確に指摘する説法は,あのまろやかな口調も手伝って非常に説得力がある。
とはいえ,小朝ですらそれだけの危機感を捨てきれないという現状は,きちんと認識しておく必要があろう。本年は落語協会会長も馬風に代替わりし,そのあたりの事情も述べた自伝「会長への道」(小学館文庫)も出版されたが,この中で会長は次のように述べている。
「上野鈴本演芸場も,近年は出演メンバーが変わって,若くて面白い連中を出すようになったけど,寄席はああでなきゃいけない。世間一般にはまだ無名でも,センスのいい若手を次々と入れていけば,まだまだお客が陰気になるわきゃない。
(略)
個性を上手に差配すれば,寄席はまだまだ面白くなると思いますね。」(P.213)
つまり,馬風会長もそう落語の現状を楽観視していないことが分かる。現状維持ではダメで,伝統を壊さない程度に新機軸をつぎ込む必要性を訴えているわけだ。もちろん,会長の音頭取りで各種のイベントも怠りなく準備しており,その一つが六代目・小さん襲名,もう一つが木久蔵・きくお同時襲名であり,その陰で目立っていないが,「春風亭柳朝」(小朝の師匠)も近々復活予定なのである。
・・・とまぁ,後継者の多い古典芸能と言えどもそう安閑としていられない現状を一通り憂いたところで,原点回帰,そもそも「落語とはどのような芸能なのか?」といことを一度振り返っておく必要があろう。
「落語とは?」ということを解説した本は数多あるけれど,漫画のことは漫画家に効くのが一番説得力があるのと同様,やはりここは噺家に聞くのが一番である。そうなると,いまや人間国宝・桂米朝以外に適任者はそうそういない。語り口は丁寧で奇を衒わず,歴史的な事柄もそのバックグラウンドとなる知識も備えた現役噺家が書いた「落語の教科書」が,表題の「落語と私」である。タイトルだけを見ると「自伝かな?」と思ってしまうが,これは,ポプラ社から1975年(昭和50年)に出版された中高生向けの「落語入門書」である。それが1986年に文春文庫に収まり,2006年には第7刷を数えるまでに至っている。バカ売れとまでは行かないが,定番の書として定着していることは間違いない。
本書の締めくくりとして,米朝は師匠・米団治から入門時に贈られた言葉を掲載している。有名な言葉なので知る人も多かろうが,ここで改めて引用しておく。
「芸人は,米一粒,釘一本もよう作らんくせに,酒が良いの悪いのと言うて,好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに,むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に,世間へのお返しの途はない。また,芸人になった以上,末路哀れは覚悟の前やで」(P.216)
「末路哀れ」が覚悟の「上」ではなくて,「前」というところが凄いな,と思う。一人寂しく橋の下でのたれ死にすることを「リスク」ではなく「当然」として考えろ,ということなんだろうが,これって,学者とか評論家とか作家にも通じるモンがあるよなぁ。世間が決めた自分の値打ちを自分で引き受けて,更に精進を重ねるほかないのだ,ということは馬風も本にも書いてあるけど,言うは易し,行うは難し,なんだよな。しかし,それ以外のまっとうな芸人人生はないわけで,仲間内で愚痴っている暇があったら,精進すべきである。そしてその先にしか,落語の未来も,「世間が値打ちを決める」商売の未来もない訳だ。
びしっと背筋を伸ばして頑張らなきゃ,と気合いの入った一冊(プラス二冊)である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-15-208774-9, \1000
ここんとこ真面目に仕事に励んでいるためか,腹回りの芳醇さは目を見張るほどである。・・・いやゴマカシはよそう。そうだよ,太ったんだよ,典型的なメタボリック症候群,つまり内臓脂肪が溜まって成人病予備軍になっちまったんだよチクショー。ダイエットをしたいなと思いつつ,ストレスを散らすための間食が止められず,しかも酒もタバコもやらないので,食うことでしか発散できないのだ。このままでは恐らく,平均寿命はおろか,定年退職前に複数の生活習慣病に侵されて死んでしまうに違いない。恐らく日本の学術研究にとってはワシなんぞ早死にしたところで何の痛痒もないばかりか,かえって厄介払いができて清々するのであろうが,そんなことはワシにとってはどーでもいい。別段,100歳まで生きたいとは思わないが,仕事があるうちは目一杯やるだけやって,糸井重里が常々言っているように「ああ面白かった~」と言って定年退職の日を迎えたいと念願しているのである。従って,せめて運動ぐらいは続けたいと,ろくに通えていないスポーツクラブの会費を払い続けているのだが・・・やっぱりこれじゃダメだよなぁ。
SF作家・高千穂遙も同様の悩みを抱えていたそうである。まあ座業している時間の長い職種であれば誰しもメタボリ体型になるのは避けられないことではあるが,「運動しなきゃ・・・でも仕事しないとおまんまの食い上げだ」とズルズル現状を引きずっていられるのもせいぜい40代後半まで,それを過ぎると老化現象とのダブルパンチで死がずいぃいっと近づいてくることになる。高千穂先生は体の不調を訴えて医者に行ったところ,中年諸氏なら誰しも思い当たる警句を大量に頂いて帰ってくることになったが,それを身に染みて痛感させられたのは,同年輩・同業種の知人の死や入院がぽつぽつ聞こえてくるようになったからだそうである。そりゃそうだ。三十路後半のワシだって,同級生の腹回りの見事さにわが身のそれを思い知らされたりしているんだからな。
で,誰しもそうであるように,高千穂先生,様々なダイエット法や健康法に取り組んでみるものの,なかなか長続きしない。水泳やスポーツクラブは通うのが面倒になるし,せいぜい散歩に毛が生えた程度のウォーキングが性に合うということが判明したぐらいだそうな。いや,それでも立派。ワシなんぞ,電車+徒歩通勤すら面倒で続けられず,デブった腹を抱えながら自動車通勤が止められないのだから,既にこの時点で高千穂先生に負けている。
ともかく,自宅玄関前からすぐに修練が始まり,しかも自分の体に負担のかからない運動で,外の景色を眺めながらできる運動であれば続けられる,ということを高千穂先生は発見したのだ。その結果,自転車漕ぎにたどり着き,修練の結果,知人から「えっ,なに,ガン?」と言われるぐらいの劇ヤセを達成し,現在も体脂肪率一ケタ台の体型を維持するまでになったのである。
本書はその経緯と,ツーリングのための薀蓄が詰まった,一本木蛮との共著によるエッセイ漫画である。一本木蛮も高千穂パパに誘われて(だまくらかされて?),ツーリング仲間として巻き込てしまったので,漫画そのものは大部分,一本木主導で構成されたもののようだ。従って,エッセイ漫画の構成は自然なもので,ガチガチの原作をそのままなぞったものでは全くない。一本木蛮と言えば本人のコスプレの方が漫画作品より有名なぐらいであろうが,漫画家としての力量は高千穂が言うようにかなりのものであり,しかも女性的な色気とかわいらしさを兼ね備えた魅力的な絵も手伝って,情報のみっちり詰まった作品であるにも拘らず,スムーズに読むことができる作品に仕上がっている。
あの吾妻ひでおをして,「じてんしゃに乗りたくなった」と言わしめるほど,読者を乗せられるパワーを秘めた本作品であるが,残念ながら,早川という健康やスポーツとは縁のなさそうな出版社から出されたこともあってか,あまり配本数は期待できそうになく,田舎の小さな本屋で見かけることは多分ない。従って,ワシみたいな田舎暮らしの人間が購入するとすれば,高千穂のWebページに張ってあるオンライン書店を頼ることになる。本書を読む限り,一本木蛮は「じてんしゃ日記」第二段に意欲を燃やしているらしいから,その念願を達成させるべく,あなたがSF者であろうとなかろうと,自分がメタボリ男(女も可)でなくても近くにかようなデブがいれば,本書を薦めて頂きたいものである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-88379-230-7, \1600
かつて「トムプラス」という雑誌があった。・・・という話は今更なので止めおくが,まあとにかく,やる気のない諦めきった漫画雑誌というものがあれほどみっともない代物に落ちぶれ果てるのか,と思い知らせてくれた反面教師であった。しかし,それでもきちんと廃刊(休刊とは言っていたけれど・・・ね)まで読者として付き合ったのは,あまりメジャーではないが,優れた漫画家に自分の個性を存分に生かした作品を執筆させていたからである。ここでいう「優れた漫画家」とは,作家性の強い・・・いや,もとい,あくの強い,一目見て「これは××が描いた作品だ」と分かる作品しか描かない漫画家のことを指す。横山光輝しかり,手塚治虫しかり,樹並ちひろしかり,夢路行しかり,竜巻竜次しかり,みなもと太郎しかり・・・キリがないのでこの辺で止めておくが,つまりは尾羽打ち枯らしたとはいえ,トムプラスでしか読めない作家の作品が多かったのである。その中にひと際個性的な漫画家がいて,それがつまり高室弓生なのである。
という話は実は本書の解説にみなもと太郎大先生が書いておられたりする。ただ,ワシ自身はみなもと先生の漫画は好きだが,文章はイマイチピリッとしないのであまり好みではない。みなもと先生は大変苦労人であるので,大変周囲に気を使われる方であり,他人の攻撃や揚げ足取りというものとは全く縁がない。それは大変にオトナの態度であるのだが,こと批評となれば,そればっかりでは読む側としては退屈である。時に辛辣であっても,自分が感じたことはストレートに文章化して欲しいと思ってしまう。本書の解説も,文字数制限のせいかもしれないが,見方が大局的過ぎて,高室の魅力を語るには迫力不足といわざるを得ないのである。そこでワシが非力をわきまえず,高室作品の持つ素晴らしさを,時にはきつい言葉も交えつつ,解説してみたいと思う。
高室は「縄文漫画家」と呼ばれているらしい。本作品以前にも「縄文物語」という絶版になった作品が存在しており,本書の舞台もそこと同じ場所,但し時代が異なる,という設定だそうな。
では,高室は縄文世界を描くだけの専業作家なのか,というとちょっと違うような気がするのだ。
もちろん,本書の主人公は,縄文時代のデランヌ村(現在の岩手県の山中)に住む,ふつーの若夫婦であり,一言で言えば,本書の帯にある通り「縄文ホームコメディ」なのであるけれど,「縄文」が付加されていなければ成立しないような,特殊な環境の特殊な夫婦の愛情を描いたものではないのだ。もし本作品に近い漫画を一つ選べといわれたら,ワシは迷わず池田さとみの「適齢期の歩き方」を指名する。舞台こそ現代の夫婦ものであるけれど,
・激しい恋愛のもつれの末ではなく,普通にお付き合いして普通に結婚して普通の夫婦生活を送っている
・旦那は組織に属して働いており,左翼に言わせれば「従順な政府の奴隷」であるけれど,普通に働くのがが一番という価値観を持っている
という,これだけ書くと「そんな普通人の生活のどこが面白い」と言われそうであるが,ワシみたいなフツーの常識人(笑うなよ)にとっては,他人様の生活を覗いている感じがして,とても楽しく読めるのである。
確かに高室は縄文の生活をかなり学術的にも正確に描くし,それが好きでやっているのだろうが,それはあくまで漫画世界の環境の話であって,ドラマそのものは普遍的な,つまりは現代の我々の常識に照らして,なんら不思議のないものに仕上がっているのである。従って,縄文世界に全くなじみのなかったワシでも,連載中からすんなり入り込めたし,今回久々に単行本にまとまったものを再読してみても,全く違和感を覚えなかった。いやむしろ,寂しい中年独身男にとっては,普段意識していない寂寥感をいやと言うほど味あわされて,一人布団で歯噛みしていたぐらいである(大げさな)。
高室の絵は,汗と油で湿った人間の肉のヒダをやわらかく描くという,一昔前の男性エロ漫画の画風でありながら,画面構成は少女マンガの手法が目立つという,かなり特異なものである。真正面アップの多用や,コマぶち抜きで全身を描く手法はまさしく少女マンガベースのものであるのに,線のタッチは1970年代の劇画調というのは,読者を限定しかねない面もあるのだが,逆に言えば,そのような画風だからこそ,縄文世界,ことに三内丸山遺跡に代表される,稲作が普遍化する以前の古代東北地方の芳醇さを楽しげに教えてくれるのである。みなもと先生が「あなたしか描けない世界」というのはまさにこのことであって,商業的にはとっつきは悪いかもしれないが,描き続ければ一定数の読者を掴んで離さない力量は間違いなくある。幸いにして,今でも漫画家業は続けておられるようで一安心であるが,あまり熱心に高室を追いかけていない怠惰なワシとしては,はやくもっと日のあたる場所に出てきてくれないかなぁ,と本書を抱えてぼんやり念願しているのだ。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-324231-0, \1300
滋味,という言葉がある。最近の文学界の動向は全く不案内であるが,奇を衒わず,それでいて「説明」ではなく「描写」を深めることによって滋味を引き出しつつ,小説という形態でしか表現できないものを著す,という吉村の執筆態度は,今も昔も,そして未来に渡っても営々として引き継がれて行くに違いないと確信しているのである。このようなオーソドックスな技法は,才能ある書き手が散々試行錯誤した結果にたどり着いたり,最初から不器用を自覚した書き手によって追求されたりするものであるけれど,それ故に,廃れることはないものなのである。吉村は多分,後者の方だろう。不器用を自覚しているからこそ,取材を重ねて史実を重んじる態度を崩さず,かといって司馬遼太郎のように思想の大風呂敷を広げることもしなかったのだ。
その吉村の遺作小説を集めたのが本書である。もちろん,香典代わりに購入したのであるが,その死に際しての行動が「尊厳死」論争を引き起こしたこともあり,いったいどういう死に様だったのか知りたい,というスケベ根性も手伝っていたことは否定しない。本書の最後には妻である津村節子の「遺作についてー後書きに代えて」も収録されており,ワシのスケベ根性はこれを読むことで収まったのであった。しかし,本書はそのスケベ根性を叩き潰す以上の効果を,ワシの荒んだ精神に与えたのである。
吉村の短編小説を読むのはこれが最初ではない。完全なフィクションも,伝聞に基づく元ネタが存在するものもあるのだろうが,初めて読んだ短編集には,地味だが,それなりに年齢を重ねた人間には思い当たる,「あれ?」と感じる行動を的確に描写する凄みが漂っていたのである。
本書に収められている現代が舞台の短編「ひとすじの煙」「二人」「山茶花」「死顔」は,それ以上の凄みを感じた。ショッキングな事件が起こる作品も,淡々と常識的な出来事が連なるだけの作品もあるのだが,どれもこれも読了後には「うーん・・・」と眉間にしわ寄せて考え込まされてしまったのである。これを面白いと感じるか,地味でつまらないと感じるかは,多分人生経験の差によると思われる。芥川賞を貰い損ねたのは多分この地味さによるのだろうが,一定数以上の読者を得て世の尊敬を集めていたことと思うと,今更どーでもいいことではある。無理して派手を装って執筆させられることの多そうな現代の作家にとっては,吉村の存在は救いになっていたのではないだろうか。
本書で唯一,未発表の歴史短編「クレイスロック号遭難」は,吉村の史実に対する真摯な態度が感じされる,吉村らしい作品である。このような歴史作品を多数執筆していながら,日本社会や歴史に関する思想を語らなかったのは,無論,歴史に対する思想がないわけではなく,下から事実を積み上げること,その営みこそが自らの思想を語ることに繋がっていたと考えるべきであろう。この路線を引き継ぐ地味な作家が,これからも大器晩成的に支持されていくことを願って止まない。
ご冥福をお祈り致します。
「西村しのぶの神戸・元町"下山手ドレス"」角川書店 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-853145-X, \820
「下山手ドレス(別室)」,祥伝社 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-396-76386-7, \781
「神戸在住」という漫画があった(現在は連載終了)。漫画自体はワシの好みのテイストで,購読雑誌を買うたびに欠かさず読んでいたが,それとは別なワシの感性が「神戸のおしゃれなイメージにうまく乗りやがって」と臍を噛んでいたことは正直に告白しなければならない。
そうなのだ。ワシはコジャレた場所や人間に対しては本能的に敵対意識を持ってしまう,「ウザい奴」なのである。原宿や渋谷を仕方なく通り過ぎるときには,マシンガンをガンガン撃ちまくってイケてそうな若者がバタバタと死んでいく様を脳内で思い描くことにしていたぐらいである。これは恐らく,バブル絶頂期に大学生活を送りながらもそこに乗れず,家賃月額一万二千円(大家さんがさらに千円引いてくれていた)の風呂なし洗濯機・トイレ共同のボロアパートで寂しく過ごしていた頃のルサンチマンの後遺症であろう。ワシが小谷野敦を愛読するのは多分,彼がブ・・・いや,この辺で止めておくことにしよう。
ともかく,ワシがファッションとか流行とか(どっちも同じ意味なんだがな)に疎いことは今もそうで,それ故に,趣味の漫画でもあまりオシャレなものはワシの視野に入らずに来たのである。
ただ,何事にも例外もあって,エッセイ漫画は別である。フィクションとは逆に,自分とは全然異なる価値観を持っている作品の方が,いろいろと発見があって面白く読めるのである。もちろん,ワシが共感する思想を持つ作品もいいのであるが,そればっかりでは脳細胞が安心しきってしまい,飽きてしまうのだ。むしろ「テメェ,人生そんなことでいいのか?いいんだな,なるほど,そういう考え方もあるのか」と,反感→肯定(洗脳?)という過程を経る作品の方が,中年を迎えて死に絶えつつある脳細胞のシナプス活性化のためには好ましいのである。
しかしそれにも限度というモノがあって,この西村しのぶの超コジャレた煩悩全開のエッセイ漫画に対しては反感を持つ隙などみじんもないのだ。「ああ,世の中にはこういう人生の過ごし方があるのだな」と感心させられるばかりである。そしてワシの頭には,若い頃には少しはオシャレを気取った方が良いかも,という後悔の念すら湧いてくるのである。
煩悩全開のエッセイ漫画といえば,一条ゆかりを置いて他にはない。うまいモノを食いたい,いい男と付き合いたい,リゾートでくつろぎたい・・・ということを言いまくり描きまくって,「一条ゆかりなら当然だよね」と世間を平伏できるパワーはさすがというしかない。しかしそのエネルギーは,幼き頃の貧乏暮らしの苦労が根底にあって湧き上がってくるものであり,それを知る多くの読者は,どんなに一条ゆかりが女王様のように振る舞おうとも,「苦労人なら当然だよね」と納得してしまうのだ。大体,彼女の場合は,「煩悩パワーが次の仕事に繋がる」と公言している通り,仕事のサイクルの中に組み込まれた行動だから,遊んでいない一条ゆかりは多分,仕事もできない筈なのである。
西村しのぶには,そのような苦労人の香りが一切しない。その時点で既にワシは敵対意識を持ってしまう筈なのだが,このエッセイはあまりに自然体で,「はあ,スキーですか」「ピンクハウス・・・ね」「カナダでリゾート・・・へぇ」「ボディバッグっつーはやりモノがあったのか」「バリで石けん作らんでも・・・」と,これまたジェラる隙がないのである。タイトルカットは毎回ゴージャスでトレンディー(死語?)な女性が描かれるが,ワシにはまぶしすぎて生きている人間に思えない。
多分,普通に流行に敏感で,無理のない生活を送っている社会人の女性にとっては,かなり自然な行動・意見を述べているのではないか。短い(1 or 2ページ程度)ページ数ながら,テンションが高いことでワシみたいなウザい男でも面白く読まされる作品に仕上がっているが,そんな生活を送っている普通の女性(20代後半~30代)ならもっと共感して楽しめるんだろうなーと思えるのである。
2006年に出た「下山手ドレス(別室)」は1998年から2006年にかけてのエッセイをまとめたものであるが,「本家」は2001年に出版されており,これはなんと1988年から1998年まで,コツコツと10年以上に渡って連載されてきたモノをまとめた,激動の「失われた10年」を物語る世相史に仕上がっている。この2冊を合わせると,著者がデビューして間もない20代前半(多分)から,30代(後半?)までの生活を語っていることになるわけで,その間,バブル崩壊ありーの,オウム事件ありーの,阪神・淡路大震災ありーの・・・と,ワシのようなおっさんは思い出に浸ってしまうという特典が得られたりする。
そんだけ息の長い作品であるから,当然,著者自身も「キャピキャピのギャル(死語だらけ)」から,結婚して主婦となり,メガネをかけながら痛む腰を気にする「オバサン」に変化している。今のところはまだ「妙齢」という訳のワカラン単語で誤魔化しが効く年ではあるけれど,「下山手ドレス」はまだこの先も当分続きそうであるから,きっと更年期障害が気になる年まで,西村は開けっぴろげに自分の煩悩を語ってくれるに違いないのである。共に老いていくパートナーに欠けるワシとしては,価値観の全く異なる異性がどのようにオバサン化していくのか,大変下品な興味を持ちつつ末永くお付き合いしていきたいと思っているのだ。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-22048-7, \1400
三浦しをんは,漫画に関するエッセイで評判になったときに初めてその名を知った。が,評論的な内容ではなく,自分の嗜好を縷々述べたエッセイであるらしいことを本屋の立ち読みで知ってからは,これは買わない方がいいな,と読まずにスルーしてきたのである。
何故か? それは,ワシのこのblogの内容とバッティングするからである。この「ぷちめれ」というジャンルは,ワシの好み100%の単なる「感想文」であって,それが何か学術的な意味を持つとか,第三者の本の購読に繋がるとか(たまーにAmazonでご購入頂いているようであるが),歴史的資産として日本文化に貢献する等といったことは全く意図していない。ワシが好きだから,気に入ったから(or クソミソにけなしたいから),主観的な感想を書いているだけであって,それ以上でも以下でもない。
従って,三浦しをんなる人物の嗜好とワシの嗜好がほぼ完璧に合致しているというのであれば別だが,そうではない場合,しかもその確率は非常に高い訳だが,好みがすれ違っていると,三浦の感想文はワシにとっては何の意味もないものになる。まあ,三浦がこんなblogの記事を読むわけもないのだが,もし読んだとすれば,事情は全く同じであり,多分殆どの「ぷちめれ」は三浦にとって全く読む価値のないものである筈だ。感情のほとばしる主観的文章というのはそーゆーものであって,故に,本書のタイトルである,
一致項目の一つは「あとり硅子」である。本書の表紙の銀糸で打ち抜かれたバスタブで優雅に本を読んでいるメガネ男子を描いているのは,故・あとり硅子である。書店で平積みになっているのをちらと見るや,直感で手にとってシゲシゲと表紙を凝視してしまったのは,ワシの"あとりセンサー"が働いたからに他ならない。
あとり硅子は本書に収められているエッセイにイラストとサイレント漫画を,死の直前まで描いていたようだ。その縁もあって,現在刊行されているあとり珪子の漫画文庫に,三浦は解説を書いている(ちょっと不満な内容だが)。
二つ目の一致項目は,本書のメインテーマである「ボーイズラブ」略してBLである。ここでカミングアウトしてしまうが,ワシは一時期,BL(その当時はやおい or 耽美という名称で呼ばれていた)漫画にハマっていたことがある。その分野では有名なBBC(BE×BOY Comics)をコンプリートで揃えていたぐらいだ。・・・う,身の破滅かも・・・と書いていて冷や汗が出てきたが,三浦が本書で力説している通り,日本国憲法の基本的人権によってワシが何を読もうと,他人様に迷惑をかけない限り,勝手なのである。
ここであらぬ誤解を受けないように言っておくが(何せワシの親まで疑いやがったことがあるからな),ワシはゲイではない。つーか,ゲイだったらBLは多分,読めない。昔,NIFTY-Serveの漫画フォーラムで,BLを読んでいる自称・ゲイの方が発言していたのを読んだことがあるが,彼によればBLの大半はゲイ漫画としては読めない代物なんだそうな。ノンケなワシにはよーわからんが,やっぱりBLは,故・岩田次夫御大(BLに関しても相当読んでいたようだ)が言う通り,ファンタジーとして理解すべきものなのであって,現実の同性愛とは隔絶された世界を描いているジャンルなのである。
と,力説しておいてなんだが,今のワシはBLどっぷりの生活からは足を洗っており,隠居生活を送りながら「えみこ山」作品をゆるゆると鑑賞するだけになっているのである。大量にあったBBCは,静岡に来る際にBook offに叩き売ってしまっているから,もう10年近く,えみこ山以外のBLは読んでいない。だいたい,えみこ山の作品は,三浦に言わせれば「まだ毛も生えそろわぬようなガキんちょが主人公の,明るく軽い男同士の恋愛話」の典型であるから(本人が「男同士が悩みもせずにラブラブ」と言っているぐらいだ),多分,カツを入れたいぐらいのぬるい代物である。そんなのを読んでいるだけのジジイであるけれど,久々に本書を読んで,「焼けぼっくいに火がついた」状態になってしまったのであった。
三浦のエッセイは初体験であるが,うーむ,熱い,熱いぞオバちゃん。あんたそれでも直木賞作家か。直木三十五が天国で泣いていやしないかと心配するぐらい情熱を込めて,BLを語るのである。いくらマイナー出版社・新書館の本とは言え,少しは文藝春秋に気をつかってやれよ,と言いたいぐらいの前のめり姿勢なのである。
それでもさすが伊達に直木賞は取っていない。妄想系と呼ばれるスタイルではあるが,そのように筆(キーボードか)が滑っても構成は崩れていないので,きっちり具体的なBL漫画作品を解説してくれている。BL隠居オヤジのワシが分かる作家は,石原理,よしながふみ(もうBL作家ではないよな),こだか和麻,那州雪絵(今は新書館で描いてますな),初田しうこ(改名したことは本書で知った),藤たまき(息が長いなあ),門地かおりぐらいであるが,記述自体はかなり正確(シュミの部分はともかく)であることは保証する。それでいて,本書には漫画のカットも,コミックスの表紙写真も一切挿入されていないのである。文章onlyで好きなBLをしっかり語る,まことに男らしい(?)硬派な態度はさすがだと,隠居オヤジは感服するばかりである。
もっとも,巻末に付いているBL小説の実作とやらは・・・,ま,読まなかったことにしておこう。本人も失敗といっているし。しかし,真面目にBLやろうしているのかなぁ,と疑いたくなるカップリングである。この辺りが,BL作家になりきれない「直木賞」の呪縛という奴なのかもしれない。
も一つオマケ。これは三浦の責任ではないと思うが,「シュミじゃないんだ」の英語タイトルが"It's not just my hobby"ってのは酷くないか?意味としては,"It's not to my liking"なんじゃないかと思うんだがどうか。大体,三浦にとってのBLはどう考えてもhobbyなんて代物ではないのである。「シュミではない」ものを排除して,本書が成立しているんだから,タイトルに偽りなきよう,訂正をお願いしたいものである。
[ 小学館 ] \1000
以前にも書いたが,ワシは(この言い方はよしりんから拝借したものである)既に小林よしのりの思想漫画には飽きていて,ゴー宣は読んでいない。いい線ついているな,とは思うし,個人的な倫理の持ち方はかなり共感できるのだが,同じ事を繰り返されるとさすがに読んでいてゲンナリさせられるからである。別にこれはよしりんに限ったことではなく,右でも左でも頑固に思想が固まってしまったお方のご意見はそーゆーもんであり,それ故に世間に堂々と物言える訳なのである。しかしワシはエンターテインメントとしての読書をしたい享楽的な人間なので,そーゆー壊れたCDみたいな繰り返し演説はご免こうむりたいのである。
今回久々にこのわしズムを購入したのはひとえに巻頭漫画が,ワシのまいふぇばりっと漫画家である,とり・みき(中黒を忘れてはいけない)の作品だったからである。最近長い作品はとんと見かけない上に,「遠くへ行きたい」を連載していたフリースタイル(出版社名)のフリースタイル(雑誌名,ああややこしい)が,なかなか定期的に刊行してくれないモンだから,おいそれとその作品を読むことが出来なかったのである。
とゆー訳で,本号のテーマである「不安」をコラージュしたよーな作品を堪能させて頂いた。しかし,よしりんがとり・みき作品の愛読者だとは知らなかったな。作風は真逆だし,思想的にも合いそうにない。どちらも少年週刊漫画雑誌(よしりん・・・ジャンプ,とり・みき・・・チャンピオン)でデビューし,ギャグマンガを描いていたから,互いに意識はしていたのかなー,とは思うが,多分,売れ部数では10倍ぐらいの差はあるんじゃなかろうか。
ついでに,ゴー宣も読んでみたが,相変わらず熱血ぶりは健在であり,思想的に共感できる読者であればそれなりに惹きつけられるのは間違いない。ただ,絵の洗練度はこの辺りで打ち止めのようで,この先何年この作画レベルを維持できるかどうかが,よしりんの漫画家としての活動が決まってくると思われる。個人的には新連載「遅咲きじじい」やゴー宣より,「夫婦の絆」を再開して欲しいんだが,あれはいつになったらまとまるんだろうか。末永く活躍してもらい,眼中レンズがクリアなうちに再開して欲しいものである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-09-181018-7, \1200
つい先日(2006年12月)に入って,ワシはとうとう20年近く購読し続けた少女マンガ雑誌の予約を取り消す旨,行きつけの本屋さんに告げたのである。
青春が終わった,と思った。
・・・あ,そこのお前,笑ってるだろ。いや,ワシだってちょっとは恥ずかしい。「青春」だなんて言葉は,海に向かってバカヤローと叫ぶことができる精神構造を持った人間にだけ使うことの許されたものだと,つい先日まで思っていたのである。だいたい,ワシはもう37の立派な中年オヤヂである。就職してから14年目である。貴様は今まで社会人としてまともな経験を経てきたのかよ,と小一時間問い詰められても仕方がないのである。
ま,教師という職業が世間知らずであることは認めよう。そして「萌えるひとりもの」として,普通に恋愛して失恋してヤケ酒くらって憂さを晴らして(以下n回ループ),結婚して子育てして・・・という,人間としてのステージを上げる努力をしてこなかった,ということも認めよう。
その上で言うのだが,そーゆー薄ぼんやり過ごして来れた時間というものが,ワシにとっての「青春」だったのだ。そのことを,定期購読を止めた時に初めて気がついたのである。
本書は藤子不二雄(A)(ホントは○にAである),安孫子素雄をモデルに,高岡から上京してかの有名なトキワ荘に住み,藤子・F・不二雄(藤本弘),赤塚不二夫,石ノ森章太郎,寺田ヒロオらと切磋琢磨しつつ,漫画家として独り立ちしていくまでの自叙伝風漫画である。自叙伝「風」というのは,やはりエンターテインメントとして読ませる作品になっているために,事実の時系列が乱れている上,結構フィクションも混じっているように思えるからである。それでも著者が感じていた昭和30時代の雰囲気はかなり正直に描いていると思われる。
BSマンガ夜話(復活しないのかなぁ)で,本シリーズに連なる最初の作品群である「まんが道」が取り上げられたとき,主人公・満賀道雄(著者の分身)の惚れっぽさ,が指摘されていた。仕事や行きつけの店などで女性と知り合う度に,ほのかな思いを抱いてしまうという所は確かにそうだなぁ,と納得した覚えがある。と同時に,これはつまりSEXして結婚して・・・ということを意図できない時期の男の典型的な自意識なのではないか,ということに気がついた。
満賀は少年雑誌に連載を持っているとはいえ,まだ駆け出しの新人である。そのことはコンビを組んでいる才野茂(藤子・Fがモデル)とも常に確認し合っており,自分の漫画家としてのスキルを上げるべく,新機軸を探してそこに挑んでいかなければならない,という意識で日々を過ごしている。このような時期は,社会人である中年ならば誰しも経験している筈である。仕事のことで手一杯,将来設計なんてまだ先の話だと,人間のステージを上げる活動(恥も伴うが)をサボってしまいがちになる時期だ。ま,普通は煩悩に負けて「据え膳」を食べてしまったり食べられてしまったりして,知らず知らずのうちにステージを駆け上がってしまうのだが,異性に対してオクテな人間は置いてきぼりを食ってしまうことになる。満賀はその典型的な人間として描かれており,しかしそれでも「ステージを上がらねば」という本能はあるので,自然と惚れっぽくなるのだと推察できる。そして,満賀の,何か世間に対して「腰が引けている」ような態度は,ステージを上がる時期を遅らせている罪悪感から出ていると言えるのではないか。そのような,仕事に対しては前のめりの姿勢,しかし人間としてのステージを上げる活動に対しては停滞気味,という時期こそが満賀にとっての「青春」なのである。
この8巻では,「青春」を終えてトキワ荘を出て行くテラさん(寺田ヒロオ)が描かれており,満賀は自分もそのような時期が遠からず来る,ということを意識させられることになった。もしかすると,この作品の最終回も近いのかな,と読者にも思わせるこのエピソードは,青春の定義を再確認させてくれるものになっている。個人的には,もう少しフィクションとはいえ「青春」を味わっていたいのだがなぁ,と願ってしまうのは,自分もダラダラと続けてきたそれを終えたな,ということを実感してからなんだろう,きっと。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-42281-1, \640
内田樹の著作から「構造主義」という現代思想を知り,橋爪大三郎によってそれが現代代数学の考え方の影響を強く受けているということを知らされ,ちょうどタイムリーに山下正男の「思想の中の数学的構造」が文庫化されたので,ちょっと深くその辺りの事柄が分かるのかな,と期待しているところに本書もまた文庫化されたのである。池田清彦の文章のうまさは既に知っていたので,早速入手して読んでみた。
池田が標榜する「構造主義的生物学」とやらがどんなものなのか,その片鱗でも分かるのかな,と期待していたのだが,その期待は裏切られた。しかし,ちくまプリマーブックスの一冊として書き下ろされただけあって,やっぱり文章は面白く,適度な性格の悪さがスパイスとなって,ピリ辛の現代科学技術論に仕上がっている。但し,部分的な突っ込みの鋭さには感心させられつつ,著者の導く結論がことごとく科学技術悲観論に到着するだけで,その具体的な回避策も解決策も提示されずに,未来を放り出しているのは頂けない。
科学技術万能論というものが色褪せて,今や先進諸国では理工系大学への希望者が減りつつあるのは本書でも述べられているように事実であり,そのことを嘆くつもりはワシにはない。まあ個人的には自分の職場の未来が明るくない,ということは困ったことではあるが,今の日本社会がどれだけ科学技術に従事する人間を求め,そいつらが生み出す成果に見合う待遇をしてくれるのか,となると,かなり疑問であるので,いわゆる「理系離れ」現象は自然なことであると納得しているのである。
逆に言えば,それだけ世間が科学技術研究者に対しては,成果を期待しつつも,一定の「うさんくささ」を持って見ている訳である。科学技術が軍事と密接に結びついて発展してきたということが周知の事実となって久しい上に,研究者も人間であって,性格の悪い奴らもいるし(平均値より悪いように思う),金や名誉に転びやすい性質も備えていることも,各種のニュースでいやんなるほど知らされ続けているのである。そりゃ,「あいつらを野放図にしておけば,軍事機密の技術だって転売しかねないし,何に使うか分かったモンじゃないぜ」と思われるのは当然であり,昨今聞かれる「研究がやりづらくなった」という研究者間の愚痴は,その世間の風潮の現れが原因の一端ではないかと推察されるのである。
さらにここで逆に考えてみれば,そのような世間の監視が厳しくなったことで,野放図な科学技術の発展というものに一定のブレーキがかかってきたと言えるのである。もちろん,今後も人権を無視した科学技術の乱用や犯罪が根絶されることはないだろうし,池田が指摘するように政治と科学技術の蜜月は進んでいくであろうが,それが全面的なカタストロフィーへとなだれ込んでいく前触れであるかのような言説というものは,どうも信用しがたいのである。つーか,池田センセーは悲観的な要素だけを選択的に取り上げるのがお上手なのである。本書に述べられている事はかなりの部分当たっているのであるけれど,現実というものはもっと巨大で果てしがないものなのだよ,ということは,少なくともプリマーブックスの対象読者である中高生の諸君に伝えておく必要があろう。
だいたい,本人は東大出て山梨大学の教授になり,いまや早稲田大の教授であるにも関わらず,何がおちこぼれ学者なものか,エリート路線まっしぐらの癖にちゃんちゃらおかしい。確かに政府の審議会に呼ばれるような特権的エリートではないのかもしれないが,人文系の方々にはない生物学の専門知識を売り物にして思想界に切り込んでいく著作を数多くモノにしている売れっ子(印税はたかが知れているかもしれないけどさ)ライター学者として確固たる地位を占めているのである。そーゆー影響力のある学者の著作,しかも一般向けの文庫本に,悲観的見通しだけを書き連ね,それを食い止める方策の提言もなしでは,無責任といわれても仕方ない。
あ,もしかして提言が出来るほどの能力がないから「おちこぼれ」なのかしらん?
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-591-09509-6, \1000
このエッセイ漫画を発見したのは,いや,正確に言えば,発見「させられた」のは,先日訪れた札幌の,程なく閉店するという書店においてであった。
この書店は,2階が漫画専門フロアになっているのだが,ここの品揃えは全国的に見ても面白いものであった。今や落ち目になっている漫画家や,ほとんど無名と思われる漫画家の作品が妙に目立つ配置になっていたりして,高校生の頃からちょくちょくチェックさせてもらっていた。いや,勉強させて頂いていたのである。
本書もそこでドカンと平積みになっていたのである。特等席ではないものの,一番店の奥の台に,この白い,それでいて何か惹かれる絵の表紙のこれが積まれていたのであった。
不幸にしてその時ワシはあまり持ち合わせがなくてスルーしてしまったのだが,本日(11/18),紀伊國屋書店新宿南店にて本書と再び邂逅したため(平積みではなかった),無事ゲットして,帰りの新幹線車中で読了したという次第である。これは札幌の閉店書店がもたらした「縁」という他ない。
札幌で本書を手にとって気に入った理由は四つある。
一つは,著者の得能(とくのう,と読む)がワシとほぼ同年配の女性だったということである。大体,どーゆー訳か,自分の生年すら明らかにしない女性漫画家の何と多いことか。特にBL系は惨憺たるもので,そんなに三十路過ぎて男×男を描くのが恥ずかしいんだったら描くのを辞めたらどうか,というぐらい多い。それに引き替え得能のこの開けっぴろげな態度は素敵である。
二つ目は,最近結婚した相手がNew Zealerにも関わらず,それを一切ネタにしていない,ということである。こんなおいしいネタを持っていれば,ポプラ社の小栗左多里にもなれるというのに,何と慎ましいことか。・・・最も本書がそこそこ売れて,続編が執筆されるとなれば変わってくるのかもしれんが。
三つ目は,絵がうまいということである。今日日,女性のエッセイ漫画家は掃いて捨てるほど出版されており,絵の巧拙は,素人に毛が生えた程度から,西原理恵子,黒川あづさ級まで,天と地の差がある。もちろん,それと内容の面白さは別物であるが,読者だってそう安くない金を払って本を買うのであるから,絵がうまいに越したことはないのである。
得能の絵は,2~3頭身の丸くて簡素なものであるが,立体を立体としてキチンと捕らえており,それでいて適度な湿り気を感じさせる優れたタッチも備えている。本書が刊行されることになったのは,ポプラ社の編集者が偶然,Webページに掲載されていた得能の4コマ漫画を発見したことが切っ掛けとなったのであるが,編集者の「目に止まった」ということが,絵の魅力を物語っているとも言える(たぶん)。カラーページは皆無な愛想なしのエッセイ漫画であるが,多分それはこの描線の持つ魅力を最大限引き出すための仕掛けであって,決して得能がメンドクサがったわけではないと思いたいのだがどうなんだろう。
しかし,最大の理由は,何と言ってもタイトルにある通り,自分のビンボウ暮らしを描いている,ということである。
今日日,日本社会,いや先進諸国は「下流化」「二分化」が社会問題のパラダイムになって久しく,それを冠した書物は沢山出版されている。しかし,「下流」人間の当事者からの生の声を,2,3行のインタビューの抜粋ではなく,ごそっと固まりで差し出してくれるものを,ワシは見たことがなかった。本書は20代から30代を「フリーター」として,本人曰く「人生をなめてかかって」過ごしてきた下流人の生の声が詰まっている希有なものなのである。
多分,編集者も著者も,ライトなエッセイ漫画を描いて出版したつもりなんだろうし,概ねそのような記述が多いのだが,結構,ちくちくと胸を刺すエピソードがちりばめられていて,三十路過ぎのフリーターに対する世間の厳しさが伝わって来るのである。その結果,ワシにとってはとてもライトエッセイ漫画と呼べる代物ではなく,得能の丸い自画像の,欠けたラグビーボールのような目の奥に潜む,マリアナ海溝より深くて暗い何かを見てしまったような,そんな大仰な形容詞を使いたくなるような感想を抱いてしまうのである。
一番うるっときたエピソードは,小銭を貯めて美容院に行く話である。内容は本書を読んで確認して頂きたいが,ワシはこのユーモラスな記述の奥にある,悲しみの大きさに感動してしまったのであった。これって,勝海舟が貧乏だった幼少の頃,餅をもらいに行った帰りに落っことしてしまい,それを拾おうとして自分の惨めさに気が付き,餅を川に投げ捨てたっていうエピソードとよく似ているんだよなぁ。大金持ちでもない限り,誰しも似たような「惨めさ」は味わっているのではあるまいか。
貧乏とは,金がない苦しさではなく,将来に対する不安だ,というのは誰の言葉だったか。簡素な絵でそれを背後に感じさせてくれるこの作品は,一定レベル以上の画力があってこそのものである。得能の「だらしない私を笑って」というへりくだった態度は日本の強固な伝統に基づくものであるけれど,多分,「だらしない私」を一番いとおしく,悲しみをたたえた存在であると知っているのは,得能自身なのだ。そして,それに共感している同世代の中年たるワシも,収入の違いこそあれ,「だらしない私」を抱えていること間違いないのである。
ワシの考え過ぎなのだろうか? それは本書を御一読の上,各自で確認して頂きたい。
[ Amazon ] ISBN 4-8443-7022-7, \2980
旧・通産省,現・経済産業省の旗振りのもと,文部科学省が大学理工系学部が産学連携に邁進するのを黙認して以来,日本の科学技術は企業と大学を巻き込んでグローバルスタンダードに挑み続けている。その動きを苦々しく思っている大学教員もいるが,ワシ自身はそのこと自体は別段悪いことではないと思っているし,世界規模で技術競争が激しくなっている現状を考えれば,遅きに失したぐらいである。
しかし,著しく欠けている要素がある。それは日本のサブカルチャーの伝統であり,特に
そんなギャグに欠ける技術世界に,ギャグをストレートに持ち込んだ唯一の例外がこの「動く!改造バカ一台」である。
このDVDは,Impress TVの超人気コンテンツの第1話から第20話まで収録した「だけ」の,オマケ動画も説明冊子も何にもない,近頃の過剰オマケに満ち溢れたDVDとは一線を画するスッピンDVDコンテンツである。しかし,それはImpress TVのコンテンツに対する自信の現われであり,決して手抜きでも売れ行きに対する期待のなさでもないはずだと信じたい。
ギャグに必要なのは正確なセンスと過剰さであり,ギャグセンスの示す方向を性格に目指して真摯な努力と体力を注ぎ込むことによって得られるものである。かのエジソンもギャグには「99%の汗と1%のセンス」が必要であると述べている通り,汗もセンスも欠けてはならないのである。
高橋にはその両方が備わっている。さすが故・矢野徹御大が見いだした人材だけあって,科学技術の無駄遣いっぷりと,計画がものの見事に失敗したときの愚痴りっぷりには,文章だけからは分からない「ギャグ魂」が籠もっている。それを見事に引き出しているディレクター・トッポ松浦氏の飄々とした突っ込みには大阪漫才の息吹が宿っており,日本の民俗芸能の精神も伝わっており好ましい。
個人的には第21話以降が好みなのであるが,それが収録された第二弾DVDが出版されるには,本DVDがImpress TVが予想する以上の売れ行きが是非とも必要であるに違いないとワシは確信しているのである。従って,産学連携に勤しむ技術者・研究者・教員の諸氏には是非とも本DVDを購入し,ギャグ成分を研究に持ち込むべく参考にして頂きたい。多分,文部科学省も本DVDを研究費で購入する分には税金ドロボー扱いにはしないはずである。ちなみにワシは私費で購入したので誤解なきように願いたい。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-301931-X, \952
かの漫画王いしかわじゅんがのたまう事には,毎日新聞社から出したエッセイ集の,本屋店頭における扱いがあまりよろしくない,あれは毎日に政治力がないからだ,毎日では仕方がない,ということであった。しかしそれを聞いたワシは,どんな地方の場末の本屋にも一冊は置いてある「毎日かあさん1,2,3」も毎日新聞社発行の漫画です,従って,失礼ながら,いしかわ先生の本の扱いがよろしくないのは単に「サイバラ」と「いしかわ」の
新潮社といえば,良質な漫画作品を扱っていながら,ことその営業成績に関してはロクでもないことで有名である。
まず発行されても店頭で見かけることは少ない。ワシが技術者ドキュメンタリーとして一押しする漫画,小沢さとる「黄色い零戦」や,杉浦日向子の最高傑作「百物語」,ベテランギャグ漫画家初のエッセイ漫画を収録した,山科けいすけ「タンタンペン」。マンガを大々的に扱っている大規模店には,まあなんとか平積みになる程度は配本されていたが,地方の中堅書店ではまずお目にかかれなかった。少しは版元になっているコミックバンチを見習えよ,と言いたいぐらいの体たらくであった。
しかし,サイバラは別格であった。茶畑しかないようなド田舎の本屋でも平積み,50万都市のコミック専門店でも平積み,日本全国津々浦々,どこへ行ってもサイバラ初のオトナ(オバサン)の恋愛・感情を描ききった意欲作は配本されていたのである。
つまり,やっぱり出版社の問題ではなかったのだ。
サイバラの新刊は,「サイバラ本」という分類にカテゴライズされているものであって,おそらくは「ムラカミハルキ本」より若干格下ではあるものの,日本各地に固定ファンが少なくない一定数存在する,とニッパンやトーハンから太鼓判を押された存在になっていたのである。従って,毎日新聞社という朝日や読売やそのうち産経にも抜かれること確実の斜陽新聞社であっても,良質マンガを売るノウハウを全く学習してこなかった文芸only新潮社であっても,関係なかったのだ。「西原理恵子」という名前が,配本数を決定する唯一の決め手なのである。いしかわじゅんの嘆きは正しく,それは斜陽新聞社から発行される,ほどほどの部数の売り上げのみを期待される本に相応しい,普通の扱いだった,というだけのことだったのである。
本書とほぼ同時期に角川書店から馬鹿でかい版形の「いけちゃんとぼく」も出ているが,絵本というだけあって児童書っぽい内容(クライマックスはちょっとオトナっぽいが)であり,少し物足りないと感じた。それに対し,本書は今までの西原キャラよりずっと等身のでかい少女漫画的美人が主人公で,かのいしいひさいちが藤原先生や月子を登場させた時のような,いい意味での違和感を漂わせる冒険的な作品になっている。すれっからしの中年の心象に近い感覚も好ましく,建前だらけのリーマン生活に嫌気がさしている向きには,登場人物たちのすがすがしい生きっぷりを楽しむことで,ストレス解消間違いなしである。
「男ははようおらんになるにかぎるなー」という言葉は真実である。
ワシはこの真実をオバハンに分からせるような,底意地の悪いジジイになりたい,と思いました。◎
[ Amazon ] ISBN 4-06-155766-1, \2400
本書は献本で著者のお一人から頂いた物である。年のせいか,最近はこーゆー形で頂く本が増えてきてありがたいやら,(中略),なのだ。それ故に,なかなかreviewしづらいのがこの「献本」という奴なのである。
まず,「タダ」で貰ったという負い目があって,reviewするにも切っ先が鈍りがちになる上に,著者が顔見知りであるが故の献本なのだから,どーも見知った人が書いた物に対しては,(中略)などは書きづらい。ってすでにもう(中略)を2回も使用していることがわかる通り,ワシが感じたままを書きまくることが難しいのである。
と言って,この先,献本については全く何にも書かないのも,Google様からPageRank 6を賜っているWebページの主の沽券にかかわる。とゆーわけで,当たり障りのない範囲で好きなことを書きまくることにする。
本書は理工系の微分積分で扱う範囲をカバーしたテキストであるが,微分積分に関する入門書と言えば,もう腐るほど出版されており,正直言って,個人的にはこれ以上森林資源を無駄にするのは止めた方がいいと思っている。とはいえ,大学教員とゆーのは研究者であると同時に,自らの担当科目に関してはテキストライターになってしまう宿命を背負っている。他人の書いたテキストを使って講義をしたとしても,「この著者はこんなことを書いているが,これはどーでもいい」とか「教科書には書いていないが,こーゆーこともある」とか,随所に批判しながら進めるのが常だ。そーゆー批判を差し挟んだノートを作ると,あら不思議,それはもう別のテキストになってしまうのである。従って,出版されている微分積分の教科書は氷山の一角であって,日本の大学には大学のセンセーの数だけ教科書が存在することになる。逆に言えば,同じ教科書を使っていても,センセーが違えば中身ががらっと変わってしまうのが,大学の講義という奴なのである。
特に,もしワシが本書を使って講義をしたとすれば,そこに記述されていない,下記のようなことを延々と喋ることになるに違いないのである。
1. 自然数から複素数まで「集合」と「代数系」としての数の体系
2. 何故,実数は「直線」なのか?(有理数の隙間を埋める無理数)
3. ε-δ論法による数列の収束,関数の極限値との関係
4. 関数の連続性=実数の連続性
5. (sin x)' = cos xが弧度法(ラジアン)でしか成立しない訳
6. 至る所微分不可能な高木関数
7. 原始関数が表現できない積分の例(楕円積分など)
8. 曲面積は曲線の延長にあらず(発散してしまう曲面積の定義例)
これで14回の講義のうち半分以上は潰れてしまい,「役に立たないことばかり教えるダメ教師」のレッテルを貼られること間違いない。ただ,ワシは最近,「大学でしか教えてくれそうもない知識」を無理矢理にでも受講生に押し込むこともある程度は必要ではないか,というへそ曲がり的心境になっていて,それ故に「理論体系としての微分積分学」の一端を見せることができるのだ,と開き直りたい欲求が抑えられないのである。
逆に言えば,本書の記述通りに進めていくことで「役に立つことだけをきちんと教えてくれる良い講義」を作り上げることが出来るのである。例題は穴埋め式で,高校までの数学をきちんとこなしてきた学生さんには無理なく理解できる程度になっているし,長たらしい定理の証明なども皆無,図形による説明は豊富なので,本書で理解できないようなら,大学教養の微分積分の習得は難しいと言わざるを得ない。説明が親切な分,最後はがっちり重積分まで習得できるようになっているから,もし自分の講義で使用している教科書が難しいとか,上記1~8のような晦渋な理論を振り回すバカ教師の講義に四苦八苦している学生さんにとっては良き参考書になることは間違いない。
・・・とゆーことはよーく分かっているつもりなのだが,どーもワシは「バカ教師」になる欲求を捨てきれないのだ。いやむしろ,この先定年まで,クビにならない程度に「よく分からない講義」をしていきたいとすら,思っているのだ。それは多分,「よく分からないこと」を相手にすることにしか愉悦を覚えない,どーしようもない性から来ているのであろう。そして,「よく分かる講義」のための技術の習得に「飽きてしまった」(極めた,という意味ではない)のあろう。
教師としてははなはだ宜しくない態度であり,言語道断ではあろうけれど,そーゆー人間でもクビにならない(今のところは,ね),というのが大学とゆーところの本質を物語っている。そして学生さんたちには,そーゆー言語道断な教師がのさばっていられる理由を,多分卒業後に身を持って知ることになるはずで,そこにこそ,「大学」という教育機関の本当の強みが発揮される・・・と詭弁を弄したい今日この頃なのである。
最後に,「教師にイヤな質問を浴びせることを趣味としてきた陰険な学生」だったワシが,現在進行形で陰険な学生たらんとしている諸君に,アドバイスを一つ進呈したい。
本書を使って講義をしている教師には是非とも次の質問をして頂きたい。
「Mathematicaって奴を使うと本書の問題は全部解けちゃうんですか?」「Mathematicaがあれば微分積分はとても楽に勉強できるんですか?」「格子状になっている2,3次元図形はどうやって描いたんですか?」という質問でもよかろう。事前にMathematica,数式処理,Maple, MuPAD, Maxima, Risa/Asirという単語をググっておき,先手を打って予備知識を仕入れておくのもbetterだ。
おそらく大抵の教師なら,"Mathematica"についての解説や,どうやったらそれを使うことが出来るのか(情報センターのマシンには入っている,とか)を親切に答えてくれるはずだ。そして同時に本書の解説にあるような「手計算」(つーか,理論の方かな)の大切さも同時に解説するはず・・・ですよね?>みゃー先生(とプレッシャーをかけておこう) 特にS岡大学にはとても"Mathematica"には良い環境があると聞いているので,是非とも使って頂きたいものである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7747-3007-6, \952
オリジナル同人界では著名な「たばなくる」主催者の,商業作品集としては2冊目となる単行本である。時折,Webページで公開される短い作品は眺めていたが,まとまった作品を読むのは今回が始めてである・・・が,まあいつものテイストであることは言うまでもない。西島大介の推薦文が帯にあるのが,らしいというか,大物になったな(西島が)という余計な感想はあるが,作品集そのものからは期待した以上でも以下でもない感想を持っただけである。それよりも「漫画の読み方」という奴を再認識させられることになったのであった。
同人誌を読むようになったのは10年ぐらい前からである。それ以前から,メジャーな漫画作品に一種の嫌悪感を持つようになっていたので,大学入学以来,段々とマイナーな作家の作品にシフトしていった。おそらくそこに漂う,作家自身が望んでいない作り物っぽい雰囲気がそうさせたのであろう。
そんな時に同人誌と出会ったのであるから,あまり違和感もなく入っていけたのは当然である。とはいえ,同人誌といえどもメジャー商業作品並みにワシを嫌な気分にさせるものもあり,ふーん,この世界もいろいろあるんだなぁと思ったものであるが,そーゆーモノとは付き合わないようにして,好きなことを描いている同人誌と付き合ってきたのである。
最近は体力と時間と金(トホホ)がないせいで,なかなかコミケやコミティアには出かけられないでいるため,作者から直接同人誌を購入する機会が得られないでいるが,そーゆー傾向の漫画作品ばっかり読む習慣は今も変わらずに続いている。
ただ,作者が好きなことを描いていると,どうしても読者という存在がおろそかになり,読みやすさが犠牲にされがちである。昔と違い,今の漫画編集者は,作者の持つ独特の世界観を生かしつつ,ユーザビリティは最低限保たせるための助言を惜しまないと思われるが,そーゆー助言が得られない同人作家の多くはどうしてもメジャー作品と比べると「読みづらい」のである。粟岳のこの本に納められている作品は,同人作品としてはかなりユーザビリティの高いものであるが,それでも細かい視線の誘導とか,キャラクターの表情の変化に若干の違和感を感じてしまう。この辺を「作者の持ち味」と見るか,「メジャー指向への障壁」と見るかは立場によって異なるだろうが,これがサークル「たばなくる」が発行する同人誌であれば,ワシは前者と思っていただろうことは間違いないのである。つまり,ワシにとって同人誌とは,読者が作者の思いを最大限汲み取るべき作品集,であり,商業作品集とは,作者が読者を楽しませてしかるべき作品集,なのである。最初に述べた「漫画の読み方」の違いとは,この同人誌と商業作品集との読み方の違いに起因するものなのであった。
本書は秋葉原の有隣堂で購入した,純然たる商業作品集である。そのため,読み方もそのようになってしまい,割と慣れ親しんでいる作品世界にも拘らず,敷居の高さを感じてしまったのであった。いい悪いは別として,このテイストを手放さない頑固さが,この著者の個性という奴なんであるからして,気に入るかどうかは,あんたの嗜好次第,なのである。
試される漫画,それが本書を読んだ結論である。こころしてふんどし少女を堪能せよ。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-853977-9, \980
一言で言えば,Making of "失踪日記"と読書日記。Comic 新現実で連載が始まった時には,「何で2004年から始めるの?」と疑問に思ったのだが,意図したのかどうかはともかく,原稿がコアマガジンからイーストプレスへ渡って「失踪日記」が発売される直前,2005年2月まででぴたりと記述が終わっている。出版社の意図としては失踪日記に便乗する形で売り上げを伸ばしたいと思ってのことだろうが,B6版のオレンジ装丁,しかもタイトルよりも「吾妻ひでお」の文字がやたらにでかい所なんぞは,あざとさの極みというべきであり,あきれるよりも笑ってしまう。この先も同様の尻馬本が出版されるようで,著者も自身のWebページで「オレンジの本を何冊出すんでしょう」と自嘲気味に語っている。
これで思い出したのが,「寅さん」として生涯を終えた俳優,渥美清のことである。小林信彦の「おかしな男 渥美清」では,寅さんのイメージ一色になってしまったことを悔いているようなニュアンスが強かったが,実際はそれだけでもないようで,先日放映されたNHK-BSのドキュメントでは,寅さんのイメージを崩すことを恐れて,盟友の早坂暁の脚本によるTVドラマの主演をドタキャンした,というエピソードが紹介されていた。松竹の意向も強かっただろうが,本人としては,映画会社の大黒柱を支える当たり役を勤めることに対して,違和感と共に誇りも感じていたというのが実情だったのではないか,と思えるのである。
古くからの吾妻マニア(何せ「ビッグ・マイナー」だからな)にとっては「失踪日記の吾妻ひでお」になることは耐え難いかもしれないが,当の本人はどう思っているのだろうか。今後の吾妻ひでおの活動を占うのは,充電期間中に読み込んだ作品群の蓄積と,そのあたりの心持ちにかかっているように思えてならない。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-3015520-7, \950
前作の極楽町一丁目シリーズで主役を張っていた,のりこさんと旦那さんの母親との闘争劇を更に「過激に」した,書き下ろし単行本・・・なのだが,正直,不満である。いや,のりこさんは前作より色気が増しているし,意味もなく胸をはだけたり全裸になったり,いわゆる読者サービスはたっぷりあるし,少なくとも前作よりは面白い。しかし,基本的にはナンセンス漫画であって,その枠をぶち壊すほどの過激さは感じられない。まあ,旧世代の大人漫画家にそこまで期待する方が無理ということは分かっているが,本書中で過激さを自己宣伝しまくっているために,その割には大したことないな,と思ってしまうのである。
のりこさんがどれだけ残虐にお舅さんをいたぶろうと,最後は生き返ってしまうのでは,どうやってもナンセンスの枠にとどまってしまうに決まっている。大体,介護すべき親を殺してしまうなんていうレベルの過激さだったら,とっくに山科けいすけが漫画にしている。一番の問題は,この程度のナンセンス漫画をすぐに没にするマスコミの脆弱さにあり,それ故に著者や編集者が作品のレベルを過大評価してしまうのだろう。
そんな程度の漫画であるから,現在老人介護の真っ最中でストレスを溜めまくっている方も,介護される側の方も,安心して読んで頂ける筈である。え? 実際に事件が起きたらどうするのかって? 大丈夫,介護する側もされる側も,望んでいるのは合法的な安らかな死であって,この作品にあるような舅殺しなんて面倒な犯罪は所詮,ナンセンスに過ぎないのだ。つまり,当事者にとっては2重に意味でナンセンスな,安全安心な作品なのである。
本書で物足りない方には,ヘルプマン!をお勧めする次第である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-660519-4, \750
うーん・・・,敬愛するウチダ先生の力作であるが,力作過ぎて,ワシにはよく理解できなかった,というのが正直な感想である。正確に言えば,本書を構成する4章,「第一章 ユダヤ人とは誰のことか?」「第二章 日本人とユダヤ人」「第三章 反ユダヤ主義の生理と病理」「終章 終わらない反ユダヤ主義」のうち,終章の「5 サルトルの冒険」と「6 殺意と自責」の部分が,一度さらっと読んだだけでは分からなかったのである。とりあえず「7 結語」を読んで,まあ分かったような気分にはなったかなぁ,というところである。サルトルのユダヤ人論の中で最大の瑕疵と著者の言う,反ユダヤ主義者がユダヤ人を成立せしめた,という主張を,レヴィナスの論を引きつつ修正する,という作業をしているらしいのだ。たぶん。この辺りが「私家版」と銘打った一番の所以であろうが,悲しいかな,そこのところをすんなり理解する頭をワシは持ち合わせていなかったのである。
それでも,他の3章は既存のユダヤ人関連の事項が要領よくまとまっていて,ためになる。特に第二章はトンデモ本では一ジャンルを築いているユダヤ陰謀論の出所が歴史的経緯を踏まえて語られており,その方面に興味を持つ人は必読である。本書の帯にある養老孟司の言う「自己と世界,両者の理解を深める」確信である終章部がよく理解できなくても,本書を通じてユダヤ人というものの概要を知ることは十分に可能である・・・とワシは自分を慰めているのであるが,どうであろうか?
[ Amazon ]
ここ数年間のPSB(renewalしてからPopup Windowがうぜってぇ)のアルバムの中では,一番安心して聞くことができた,かなぁ。Bilingualでラテンに傾倒したかと思えば,エレキ主体の曲に凝ったり,1990年代後半は冒険をしていたのが,21世紀(誰も使わなくなったな,この言葉)に入ってからは「普通にシンセ」(テクノって死語かなぁ)しているように感じる。
といって,1980年代の頃に先祖がえりしたのではない。あの頃の"Two Divided by Zero"なんかと聞き比べてみれば,前面に出た電子音は同じテイストを持っているが,その奥に潜む高周波音には明らかに深みが出てきている,つーか,深みを持たせるべく,音の重ね方の熟練度が増している。だからワシみたいな年寄りでも飽きずに聞いていられるのだろうな。小室なんか,今聞くとやたらに古臭く聞こえるもん。
男同士の夫婦生活(だよなぁ)も長くなって,倦怠期を乗り越えた厩火事えげれすミュージシャンコンビも円熟味を増している。死ぬまでピコピコいわせて頂きたいものである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-320-01758-7, \2300
情報セミナーIという,小規模ゼミを二年生対象に行うことになり,さて何をしようかな,Excelでもやろうか,でも自分でテキスト作るのもしんどいなぁ,何か手頃な教科書がないかな?・・・という訳で選択したのが本書である。
本書の目次を,Amazonの紹介ページからコピペして以下に貼り付けておく。
第I部 ホップ
データの入力
Excelの利用法
基本統計量
グラフの利用
ヒストグラム
第II部 ステップ
ピボットテーブルによるデータの整理
相関係数
散布図
第III部 ジャンプ
母集団と標本―代表的な分布
統計的推定 その1―母平均の区間推定
統計的推定その2―母平均の推定(近似的な方法)と母分散、母比率の推定
統計的検定 その1―仮説検定
統計的検定その2―分散分析
回帰分析―単回帰分析
わかりやすい報告書のまとめ方
いわゆる,数理統計学,統計解析,統計学,と銘打った大学学部レベルの内容を扱った教科書であり,もちろんExcelの機能を使って実習を行うことを前提としている。それが第I部~第III部に分割されている訳である。
と,まあ,ごく普通の教科書なのだが,ワシが気に入ったのは,Excelの操作に関しては結構複雑なものが多く,それでいて本文の解説をキチンと読み進めば,その操作がしっかり辿れるようになっている点である。実際,2年ばかりこれを使って,自学自習を行ってみたが,Excelの操作が分からない,と言った学生は一人もいなかった。よって,ワシの教育実践の経験から,本書の教育的レベルの高さは保証できるのである。
ただ,ワシが使用したのは第II部までなのである。ここまでは,一応統計量の解説なんかがあったりするものの,9割以上が単なるExcel操作練習として流せる内容なのだが,さすがに著者らは大学の講義としてそれではイカンと思ったのか,第III部の冒頭に確率の定義,事象といった,一番数学的かつ学生さんたちからは嫌われる内容を短くまとめてしまっている。そして推定・検定へと雪崩れ込むのである。ここに至っていきなり定積分なんかが出てくるんですぜ。そりゃぁ,今までは単なるExcel練習だと思っていた学生は戸惑ってしまうのである。やむを得ない,かなぁ,と思いつつも,もう少しこの第II部から第III部への不連続さを和らげる手段を講じることはできなかったのかなぁ,というのがユーザとしての偽らざる感想である。
一応,統計を講義したことのある者としては,どうせ数学の道具立てを使わなければ説明できない内容なのだから,大なり小なりそれを毎回使いながら説明し,少々の脱落者があっても仕方がない,君たちはこれに慣れてもらわねばいかんのだ,と説教をかましながらやるぐらいであったほうがいいのではないか,と思ってしまうのである。そこのさじ加減をうまくできないもんかなぁ,と日々悩んでいる教師としては,本書の説明の不連続さは一種,爽快ではあるものの,他の教師サンたちも同じ問題を抱えているんだろうなぁ,と消極的連帯感を覚えてしまい,その悩みの解決策が本書でも示されなかったことに,少し失望したのであった。
「極上 歌丸ばなし」 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-901174-21-5, \2000
「円楽 芸談 しゃれ噺」 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-86191-187-7, \2800
NTV系列で40年に渡って放送されている長寿番組「笑点」,その司会者を,今は亡き三波伸介の後を受け,昭和57年(1982年)から担当してきた三遊亭円楽が,今年平成18年(2006年)に引退,後をレギュラー回答者の最長老(だったかな?)・桂歌丸に託したことは,ニュースとしても取り上げられた。で,話題が出ると黙っていないのが出版社,なんせ世の中ショーバイショーバイ,オマンマ食ってクソして寝るにはおゼゼが必要,ならば売れると踏んだ本の企画を立て,せっせと売っていかねばならない。そこで新旧の笑点司会者の半生をまとめた本を出版した・・・訳なのだろうが,どっちも出版社が弱小であり,まー,それなりにでかい書店では平積みになっているものの,地方都市のベストセラーと雑誌しか置けないような小さい書店ではまず見かけない。ワシみたいに,本を買うために往復一万数千円も交通費を費やして丸善丸の内本店にのこのこ出かけていく酔狂な輩はそうはいまい。貴重な本であるから,この場を借りて,ど田舎に住む笑点ファンに紹介しておく次第である。
出版された日付としては,歌丸本の方が先である。こちらは編者が名うての演芸評論家であるから,文章はかっちりまとめてあって,資料写真も豊富である。対して円楽本の方は,たぶん聞き書きなんだろうが,本のサイズがでかい割には文章が改行だらけのスカスカ,なんだか上げ底のうな丼を頼んでしまったようで,損した気分になる。しかし内容はめっぽう面白く,どちらも一気に読んでしまった。
歌丸師と言えば円朝噺に熱心に取り組んでいることで知られているが,かつては新作で著名な噺家の弟子であった関係もあり,新作を語ることも多かったようである。それがどうして円朝噺へ転向していったのか,というあたりが歌丸本の中核主題である。ワシにとってはそれよか実家の廓,遊郭についての記述が興味深く,実際に身売りの場面を見た,という歴史的事実に出くわして,ああ本当にあったんだなぁ,と嘆息したのであった。
円楽師は,ワシにとっては人情話の噺家で,本書でも取り上げられている「浜野矩随」なんかは絶品だったのを覚えている。ただ,ワシの両親はどちらも円楽が嫌いで,ことに説教臭い話し方がお気に召さないらしい。うーん,ワシが教師になったはこの説教臭さに魅せられたせいかしらん?
円楽本で一番面白かったのは,今でもよくさまざまな噺家から語られる落語協会分裂事件についてである。何せ,協会を飛び出した張本人である円生の筆頭弟子が円楽であるから,一番身近で事件を見,その結果を背負ったことになる。その記述を読んでみると,なるほどなぁ,師匠筋の仲たがいのみが原因であって,弟子には迷惑この上ない事件であったことが良く分かる。ことに,円生が怒った「真打大量生産」なぞは,もともと円楽師が言い出したことであったそうな。してみれば円楽師には協会を飛び出す理由はなく,師匠についていかざるを得ない,という義理人情だけで,文字通りの貧乏くじを引いたことになるのだ。うーん,これについては歌丸本でも,「やっぱり一番苦しい思いをしたのは,円楽さんじゃないかと思いますね」(P.134)と言及されている。浮世のしがらみ,なんてもんじゃなく,昔ながらの師弟の繋がりってのが強い世界なんだなぁ,と感嘆することしきりである。ワシなんぞは談志さながら,「じゃ俺はやめる」とばかりにさっさと袂を分かつに違いないのである。
全体的に,歌丸師は現在,落語芸術協会会長を務めるだけあって,協会内部の変遷が語られているのに対し,円楽師は一人,一門を背負うべく寄席を作って借金をこさえたために無理をして,という苦労話が語られており,歌丸本に比べて円楽本はちと人生に対する後悔の念が強いように思われる。しかし両者とも笑点を土台に人気を獲得していった売れっ子であるから,無用の同情は必要なかろう。噺家も,浮世の波間にどんぶりこ,なんだなぁ,ということがよく分かる2冊,笑点ファンならキチンと常備しておきませう。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-660501-1, \760
梅田望夫の「ウェブ進化論」が,すこぅし能天気な楽観的未来を展望(期待?)している感があるのに対し,本書は現実に起きている事象のいい面と悪い面をきちんと包含した記述があり,好感が持てる。著者の名前はしばしばInternet Watchでお見かけしていたが,もともとInternetが関係した事件について興味を持って追いかけていただけあって,単純な楽観論には組せず,常に懐疑的な立場で技術の移り変わりを眺めているという立場を守っている,貴重なジャーナリストである。
本書はGoogleという進化の著しい企業について記述したものだが,梅田が持ち上げるロングテール論の具体例(羽田空港の駐車場ビジネス)を,実地に当事者に取材して取り上げたかと思えば,Google八分(検索結果からの締め出し)が現実にあるということも,悪徳商法マニアックスを例に挙げて示している。
日本に,いや,世界に広がるInternetが1990年代,急速発展してきたのは確かにWIDE的楽観主義の力があったからであるが,さて,ここまで一般に普及してきた昨今,一部の技術者だけが巨大なネットワークを主導できる筈もなく,ボチボチ真剣に社会制度の一部としてInternetを捉えなおす必要が出てきて来ているのではないか。そう考えるのが普通であろう。
その材料として,一番ビビットに「使える」資料が本書である。ちえっ,もっと早く読んでおくんだったワイ。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-19-770132-2, \1200
1973年に一度沈没した日本がこの2006年7月15日に再び沈没するというのである。この未曾有の大惨事を目前にして,世界に冠たる書籍文化を支える大手出版社が手をこまねいているはずもなく,音羽グループ・一ツ橋グループはもちろん,日本より先に沈没しかけている徳間書店までが,日本を代表するカルト漫画家を緊急召集し,アピールを行うに至ったのである。
それが本書だ。
鶴田謙二がカバーイラストを担当した関係上その名前だけが表紙にでかく印刷されているが,それ以外の執筆人が多すぎて載せ切れなかったらしい。これは,日本が保有する全船舶・航空機を動員しても全国民を退避させるには大幅に足りず取り残される国民が多数出る,ということを象徴させているものと思われる。なんて憎らしい演出なのだ。徳間康快亡き後,迷走しまくった出版社とは思えない緻密な営業戦略である。
それはともかく,文字数制限のないこの場所を使い,鶴田以外の執筆陣もここで紹介しておくことにする。
吾妻ひでお,あさりよしとお,唐沢なをき,遠藤浩輝,伊藤伸平,西島大輔,恋緒みなと,米村孝一郎,ひさうちみちお,トニーたけざき,空ヲ,いしいひさいち,寺田克也,TONO,宮尾岳,安永航一郎,ヒロモト森一,幸田朋弘,ロマのフ比嘉,とり・みき(敬称略)
これだけの豪華ラインナップを取り揃えて,自身の出身地がどのような沈没の有様を呈するのかをシミュレーションさせようという壮大な試みが今,開始されたのである。ワシは書店で本書が大量に平積みされているのを発見し,感動を抑えきれず,残り少ないSUICAをはたいてレジに直行したのであった。
読了したワシが満足したことはいうまでもない。しかし,部分的には不満が残る。一番問題なのは恋緒みなとが執筆した名古屋沈没編である。
今や名古屋といえば,日本の製造業の中心地である。総売上高21兆円,純利益1兆円を誇るトヨタ自動車が本社を構える地域の沈没を描く重責を与えられたにもかかわらず,トヨタのトの字すら出てこないのはどういうわけだ。なぜ「トヨタ沈没」ではなく,「赤味噌沈没!?」なのだ。名古屋人の赤味噌志向は日本の七不思議の一つに数えられるものであるが,トヨタを差し置いて赤味噌を取り上げるとは,お好み焼きの焼き方一つで殺人が起こる大阪人並みの非合理精神である。瀕死の徳間が健気にも編んだ本書という大舞台で,このような重大なミステイクが発生したことは万死に値する。
徳間書店はこの責任をどのように考えているのか,ワシとしては猛省を促したい・・・のだが,実は既に多数の読者から同様の非難が寄せられたと見え,「日本ふるさと沈没 Vol.2」の代わりに,伝説の漫画雑誌「リュウ」が2006年9月19日に復活させるという知らせが本書に挟み込まれていた。今頃「リュウ」というブランドに頼るぐらいなら,ワンマン社長の暴走を食い止めて「キャプテン」を続けていればよかったものを・・・と今更ながら嘆息してしまうのだが,何にせよ,この知らせは喜ばしい。
願わくば,日本沈没前に発行してほしかったが,贅沢は言うまい。せいぜい沈んだ後にじっくり楽しませていただこうではないか。
なお,本レビューに関しての論理的情緒的短絡的常識的なご意見は黙って消去させていただくものとする。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-68729-7, \700
お目当ての新刊をgetすべく書店に入ったものの見つからず,さりとて読書欲ははちきれんばかりに膨れ上がっており,このまま手ぶらで帰るわけにはいかなかったのである。本書はそんな時にふと目に入ったもので,もちろん金森の名前は知ってはいたものの著作を読んだことはなく,題名の,それも副題である「チフスのメアリー」に惹かれて買ってしまったのである。夕飯代わりのマクドナルドのフィレオフィッシュセットをパクつきながらほぼ一コマ,90分で一気に読了した後に残ったものは,ひたすら苦く,それ故に脳細胞が活性化される「問題の種」であった。
いや,これを中学生に読ませるのかい,金森先生よ。ワシとしてはその度胸を大いに買うと共に,「いいのかよ,ぉい」という一抹の不安を持たざるを得ないのである。ちょっとでもヒューマンな心を持ち,サイエンスの心得がある者であれば,それ故に,本書が提示している問題の大きさに慄然とせざるを得ないはずなのだ。道徳の教材に使える? そーね,使えるけど,教室が水を打ったようにシーンとしても知らねーぜ,オラ。
チフスのメアリーという言葉をどこで聞いたかは覚えていない。しかし,確かにどこかでチラとその意味と言葉を知って以来,脳の奥底に引っかかっていたのは間違いない。そこには不可視の病原菌への恐怖と,基本的人権を完全に否定された者への憐憫がオマケとして付加されている。
本書はその,18世紀末から19世紀初めにかけて,アメリカ合衆国に実在した「チフスのメアリー」こと,Mary Mallonの生涯を辿り,そこから現代にも未来にも通じる公衆衛生的大問題を突きつけている。
本書では触れられていないが,隔離を伴う法定伝染病として最も著名なのはハンセン病だろう。つい最近,日本政府が過去の隔離政策の行き過ぎを謝罪したことも大きく報道された。この問題に関しては,武田徹の「隔離という病」に詳しい。
感染力の強い(と思われる)伝染病が発生した時の対策として,一般社会から離れた場所に「隔離」する,ということは,まあ字面だけ見ていれば当たり前のことと思える。しかし,それによって生じる問題を考え出すとキリがない。隔離に際して発揮される強制力はどこから来るのか? また,隔離することによって確保される公衆衛生の規模はどの程度のものなのか? 隔離される患者の人権が侵されることによって得られる社会の対価は,本当に釣り合うものなのか?・・・といった難しい,そして結論が出るまでに時間が必要な問題が山ほど噴出してくるのである。普段,我々が「善意」と呼んでいるものが,スライドしてそのまま患者にぶつかり,取り返しのつかない被害をもたらしてしまうのだ。
伝染病は怖い,怖いから公権力に取り締まって欲しいと願う,その後押しを受けて隔離に乗り出した結果,医学的に正確な感染力の把握もなしに患者への差別が社会に蔓延してしまう・・・という構造を非難するのはたやすい。たやすいが,その構造こそが我々の社会を保つ源泉でもある訳で・・・あーもー,考え出すとキリがないっ・・・ということになってしまうのである。
実在したメアリーは,腸チフスの保菌者であることが断定され,ごく一時期を除き,人生の大部分を隔離された島で送ることになってしまった人物である。確かに著者の言う通り,そんなに長期間閉じ込めておく必要があったのかは疑わしく,不幸なレアケースであることは間違いない。しかしそれでも,メアリーが腸チフスを他人に感染させたことは否定できない。そんな人物を我々,いやワシやアンタは受け入れることが出来るのだろうか?
できる,と著者は言い,その実例を,Plavska一家とメアリーとの交流に求めている。家族ぐるみでメアリーを歓待しながらも,メアリーとの食事後は「お皿をごしごし洗ったり,熱湯で煮沸したりした」。しかし,続けて「それほどの懸念を押してでも,メアリーと時間を共に過ごしたいと思ったということの方が大切」(P.113)だ,と。
自分の身を守りつつも,かけがえのない友人との交流を保ち続けるという,この態度が一般常識になることが望ましいのは言うまでもないが,果たしてそれが自分に出来るかどうか。この辺が,道徳教材としては一番難しく,そして核心部であると思われる。
文章は軽快でありながら,読み進むにつれて,ドンドン自分の思考が捩れ,キリキリと音を上げだす。そんな辛くて楽しい読書は久しぶりだった。二重丸。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-06-370314-2, \760
声のぷちめれ -> MP3 File(05:23)
参考リンク
映画「刑務所の中」(DVD)
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-05-604392-2, \667
声のぷちめれ -> MP3 file(4:27)
参考リンク
・うぐいす通信
・うぐいすみつる「ピンクのお部屋1」「ピンクのお部屋2」
・うぐいすみつる「妊娠ちゃちゃちゃ!!」
・けらえいこ「たたかうお嫁さま」
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-575-83236-7, \552
買い物に出かけたショッピングセンター内の書店で本書が出ているのを発見した。おお久々,では早速レジへ・・・と思いきや,先ほどなけなしの金を煮干と本だしと詰め替え用シャンプーと3足セット靴下に費やしてしまったばかり。ATMから金を引き出そうにも今は土曜日の午後6時過ぎで,とうに閉まっている。うう悔しい,これから家に帰って金を取って戻るのも面倒だし,今日は諦め・・・いやいや待て待て。BARレモンハートと言えば・・・そうだ,そうだ。自宅に飛んで帰り,すぐ隣のコンビニに飛び込んで新刊漫画の棚をざっと見ると・・・あったあった,ありましたよ。
そんな訳で,無事本書を見つけたその日にgetすることができたのであった。
そう,BARレモンハートの単行本は,全国ネットのコンビニには必ず数冊配本されているのである。うろ覚えだが,これは十数巻に達した頃からの現象だったと思う。年単位で出版されるかされないかという頻度であるから,ワシは大抵,どこかの店頭に並んでいるのを見て気がついた時に買う,というやり方でgetしていたのだが,いつの間にやらコンビニで出会う確率が増えていったのである。ジャンプ・サンデー・マガジンコミックスのヒット漫画なら兎も角,大手とは呼べない双葉社の,しかも一度は休刊したアクション連載のコミックスとしては,クレしん・じゃりチエ・三丁目の夕日に次ぐ配本数ではなかろうか。実際,この最新刊の帯には「600万部突破記念フェア」の文字が大きく踊っている。一巻分だけでも30万部近い部数が出ている漫画単行本は,双葉社レベルでなくとも大ヒット作であることは間違いない。
作風はどう見ても派手とは言えない漫画作品がどうしてこれまでの大ヒットを記録するまでに至ったのか。そこで語られている酒に関する薀蓄の深さと愛情もさることながら,やはり前回も述べたようにBARレモンハートに集う常連達の魅力と,そこに登場する多彩なゲストキャラクター,その三位一体がなす力が大きいと思われる。しかし何より,掲載雑誌の危機に際しても本連載を絶やさなかった双葉社の頑張りが大きい。連載がストップしていれば,このような大ヒットに繋がることはなかっただろう。
松っちゃんの独身生活は相変わらずだが,振られても振られてもチャレンジし続ける姿勢は寅さんを思わせる。どんなに時代が変わろうとも,ギネスブック級のシリーズ映画の味わいに近づきつつあるこの作品が続くことを願わずにはいられないのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-89308-639-1, \1238
自堕落なGW(NHK的には大型連休)を過ごしてしまったので,ワシより10以上も年上なのに更に自堕落な人生の一時期を過ごしてしまった噺家の本を紹介したい。ここでも昨年の借金&立川流除名&心臓発作騒動を取り上げ,そのことに触れ憤っている吉川潮の本もぷちめれした,快楽亭ブラック師匠の半生記(反省記?)である。題名の通り,最高2000万円の借金を抱えて立川流を除名され,心臓発作で倒れて病院に担ぎ込まれて九死に一生を得,高座に復帰するまでのことを,自分の生い立ちや生き様を交えて包み隠さず語っている。さすが噺家としてよりは映画評論家&風俗レポーターとして活躍してきただけあって,文章は至極読みやすい。
ワシがブラック師の落語を聞いたのは一度きり(日記によれば2002年3月らしい)だが,確かに危ないネタ(○室・シモネタ・エロ・○別)が満載ではあるものの,その使い方はきわめてストレートであったことを覚えている。社会風刺を気取ってやろうという意図はまるで感じられず,優れた芸人の感性で「これは誰もやっていないからベタにならないし,受けるから使おう」と選択した結果,かような内容になってしまったのだ,とワシには思えた。実際,far right peopleの乱入だけは恐れたが,ワシは素直に笑えたのである。逆に言えば,彼が取り上げる対象に対して普段我々が感じていることを素直に掬い上げている,ということなんだろう。従って,彼を「アブナイ噺家」たらしめているのは,ワシらの心に救う拭いがたい,そして拭うつもりもない感情であると言える。
そんなストレートなブラック師であるから,本書で語られている内容はかなり赤裸々なのに,乾いているのである。うーん,ワシが思い描く多重債務者のイメージって,自分のだらしなさ・至らなさを棚に上げて,徹頭徹尾,自己弁護に努めるって感じなのだが,これは全く違う。
例えば,原稿料収入が減って複数のサラ金から借金をしまくり,その返済に行き詰った時に彼が取った方法は,かの吉川先生を憤らせた,自分の弟子にカードを作らせて借金を代替わりさせる,というものだったのだが,それに関する本書の記述はこんな感じである。
「しかしパニックになっている時は人間悪い判断しかしないものだ。」
「この方法,かつて全日本プロレスが資金繰りに困った時,女子プロレスラーや小人レスラーにサラ金から借金させて支払いしたと,(略)以前聞いた話を思い出してやってみたのだが,二度も倒産し,遂には自殺者まで出した会社の真似をしたんだからうまくいくはずもない。」(P.28-29)
冷静に分析している。騒動がおさまった今だからこういう記述ができるんだろうが,それを差し引いても,普通,自己弁護の一つや二つは挿入したくなるのが人情ってもんだろうが,それが一切ないのは潔い。もちろん,この潔さは,「借金を友人だと思い,開き直って借金ネタを自虐的なギャグにしたら,面白いように客席がわいた」(P.158-159),という芸人の感性も手伝っているのだろう。危ないネタを選択してきたブラック師の真骨頂である。
世間的には「困った人」という存在は,ワシも含む普通人に対して踏み絵となる。困った人を身近に持ってしまった場合,どの地点までは付き合い,どの地点からは突き放すか。これは困った人との距離のとり方で随分違ってくるが,基本的にはワシらの「度量」というもので決まってくる。単なる聴衆としてブラック師と付き合う分にはCD代込みの毒演会入場料を支払うだけで縁が切れるが,借金に直接巻き込まれた奥さんや弟子とその親,吉川先生も含む立川流関係者にとっては,かなりの度量を要求される踏み絵であったろう。ブラック師は自身の甘えのあらわれとして,奥さんや吉川先生(本文中ではY先生)には非難がましいことをちらっと書いているが,見放されても仕方ないな,と納得しているところが見られる。反面,毒演会に来てくれる聴衆や友人らには感謝しているものの,これから自分が芸人としての人生を全うしなければ彼らも見放すだろう,ということは覚悟しているようだ。まだ1500万円以上残る借金はそのカタとして返済し続けます,という決意宣言。それが本書刊行最大の,本人にとっての目的であることは間違いない。
とゆーことで,ブラック師は借金返済ために毎月毒演会を開催しCDを販売し続けねばならなくなった。おかげで彼を遠くから応援する聴衆は毎月3000円の踏み絵を踏まされることになったが,ワシ自身は殆ど駆けつけられない。で,せめてここで本書を紹介し,印税分ぐらいは踏み絵さんに援助をしたいと思っている次第なのである。
オマケ(声のぷちめれ) -> MP3 file(2:32)
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-906421-04-X, \700
声のぷちめれ -> MP3(4:34)
参考リンク -> 「エロバカ学級日誌」
[ BK1 | Amazon ] ISBN4-939138-27-5, \1100
声のぷちめれ -> MP3ファイル(4:44)
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-710032-3, \724
全く,読者をなめるにも程がある。本書は角川Oneテーマ21(このシリーズ名もフザけている)新書の一冊であるにも関わらず,首尾一貫したテーマがない。一応,無理やり「知ること」というテーマは付いているけれど,そんなモン,学者の書いたものならみんな「知ること」について何らかの考察を行っているに決まっているのである。
ここに収められている文章は,マスメディアに発表されたものが多く,内田ファンでありかつ遅ればせながらのナイアガラーの一員であるワシは,「あ,これ読んだ」というものも結構あった。つまり一言で言えば本書は「内田のエッセイ集」であり,例えば「先生はえらい」のような首尾一貫した書き下ろし作品ではない。内田が書く以上はコミュニケーション論に関する何らかの哲学論考が含まれているのは当然であるが,常識的に言って「Oneテーマ」と言えるかどうか,はなはだ怪しいのである。「知ること」という取ってつけたような説得力のないテーゼを掲げた角川書店の編集者が本書を刊行した本意は,やはり売れ筋の内田本をラインアップに取り込んでおきたい,というものであり,それ以上のものではないと断言せざるを得ないのである。
でも内田ファンだから買っちゃうし,新幹線車中で完読してしまうのである。まんまと角川の優秀なる編集者の術中に嵌った哀れな一読者としては,私怨をここにぶちまけて憂さを晴らすほかないのであった。哀号。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-09-130396-X, \743
マンガ読み歴30年を超えるワシだが,純然たるコミックスを買ったつもりで,実は教科書だった,という経験は初めてである。いや,べっくらこいた。
もちろん竹宮が京都精華大学の教授に就任した,ということは,本書に収められているエッセイマンガ「K子ちゃんの教授生活!?」を掲載誌(フラワーズ)で読み知っていたが,表題作のオムニバス作品「時を往く馬」までが,「教材」であったとは思いもしなかった。うーむさすがベテラン,作品解説できっちり「構成」について語りながらも,ちゃんと自己表現とエンターテインメント性を両立させている。特にこの4話のうち,第1話を最初に掲載誌で読んだ時には,ちゃんと現代の内戦状態を描いており,絵に土俗性が出てきたことを最大限効果的に見せているところに感心させられたのを覚えている。うーむ,それが教材・・・生徒さんはさぞかし自分とのレベル差に愕然とさせられるのではないか。ま,厳しいけど,いい加減,成人した男女を相手にするのであるから,現実って奴を見据えてもらうためには,いい薬になることであろう。
日本のマンガのレベルを維持するには,大学のような機関で一定数の学生をきっちり教育し輩出する必要があることは教師としてのワシは首肯するしかない。だが,一読者としては,早いとこ教授職なんぞという雑用(それが本業の一部なんだが)はさっさと引退して,面白いけどこんな短い欲求不満が溜まりそうな短い作品集ではなく,もっとまとまった作品を読ませてもらえないだろうか,と切実に思うのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-08952-7, \1000
数学に関する専門書を書評するのは緊張する。一応,数学科というところに席を置いたことのある者としては,ビンと背筋を立て,少ない脳細胞をフル回転させて論理を追わねば何も得られない,しかし真摯に立ち向かえば相応の成果をもたらしてくれる「数学」という,得体の知れない相手と立ち向かえば緊張するに決まっている。その昔,ゼミでしごかれた経験から来るパブロフの犬的条件反射が,まだ脊髄に刻み込まれているのである。
本書はサブタイトルにもある通り,理工系の素養のある人間ならば誰しも慣れ親しんだ微分積分学成立の歴史をまとめたものである。元は市民講座で講義した内容であるから,きっと分かりやすく噛み砕いた内容なんだろうな・・・と思ったアンタは甘い。ワシは本書を一応「読んだ」が,プロパーの数学屋の言葉では「眺めた」というべき程度であって,とても内容をきちんと咀嚼し,理解したというレベルではない。それは一言で言うなら,ワシがバカだ,というだけのことであるが,もう少し詳細に言うと,ワシがすらすら理解できる思考方法で,ニュートン以前の学者達が考えていなかった,ということなのである。ワシだけではない,果たしてこれを,特に現在の微分積分を習得した人間がすらすら理解できるのかなぁ,と,負け惜しみを込めつつ,考え込んでしまったのである。
簡単に言うと,古代ギリシア人からアルキメデスを経てニュートンに至るまでの思考は,ユークリッド幾何の言葉で語られているのである。これは,初等幾何が苦手なワシにとっては辛い。きちんと自分で図形を書き,じっくり証明の一行一行を確認しながら理解していかないと,「分かった」気がしない。アルキメデスの求積法の証明の緻密さと独創性(現代から見れば,だが)は驚嘆すべきものだが,逆に言えば,このレベルの思考ができなければ正確な面積・体積計算が出来なかった,ということであるから,全く,今も昔も天才にはかなわねぇなぁ,と呆れるばかりである。つまり一般人には到底ものに出来るレベルのものではなかったのだ。そんな高度な幾何学的論証に,今で言うところの記号処理(一般に「計算」と言われているもの)を持ち込んだデカルトという存在がなければ,ライプニッツの積分記号も登場せず,今のように機械的な処理を覚える微分積分にはならなかったのである。
このような歴史的流れは大体知っていはいたものの,個々の偉人の業績をきちんと数学的にごまかしなく記述してくれているのが本書の,専門書として優れている所である。ほんとに佐々木先生はこのレベルの講義を市民講座でやったのかなぁ,とワシがちょっとやっかみ半分に疑いたくなるのも無理はないのである。そして,昔の条件反射で,この文章を打ちながらもちょっと上半身が硬直しているのも,この「数学」的な記述が昔の記憶を呼び起こすからなのである。
今は微分積分を教える機会のないワシであるが,その時が来たら,本書をもう一度,ねじり鉢巻して読み込み,是非ともリベラルアーツの香りを漂わせるための素材として利用させて頂きたいと思っている。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-309-40787-0, \920
芸人伝というと,今ではすっかり評価が定着した故人を扱うのが普通だが,これはつい最近物故した芸人か,今も現役バリバリの芸人を扱っている。月亭可朝なんて,本書で紹介されていなければ,ワシにとっては単なる選挙出たがりオジサンとしか認識されなかったであろう。あるいは,ショパン猪狩。昨年(2005年)に亡くなった時には,なんて一般紙の扱いが小さいんだろうと嘆いたものであるが,本書では「本田美奈子より偉大な芸人」と紹介されていて,溜飲を下げることが出来た。レッドスネークカモンよ永遠に,である。
しかし一番興味を引いたのは,やはり快楽亭ブラック師匠(もう弟子はいないが)である。昨年借金騒動の果てに立川流を除名(破門より軽い)され,その直後に心臓発作でぶっ倒れた,あのお騒がせ真打噺家である。この騒動には吉川先生も立川流顧問として関わっており,ご本人のとりなしによって除名で納まったところを,よせばいいのにブラック師匠,雑誌で先生を批判したもんだからさあ大変,吉川先生のお怒りを買ってしまい,本書の追記ではケチョンケチョンに罵倒されている。文章上では至極紳士な著者をここまで怒らせるとは,やはりたいした玉である。それでも著者はどっかでまだ突き放しきれていないように思えるのだが・・・バカな芸人に対しては情が沸くものらしい。分かるけど。
あんまし利口でない人間の,エネルギーほとばしる爽快な人生を短い分量で手堅くまとめた名エッセイ,読んで損はあるまいよ。ワシも大いに参考にさせて頂き,周囲の迷惑を省みることなく頑張ります。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-08-865332-7, \505
本書のタイトルにある「晶子」とは,明治から昭和にかけて活躍した実在の歌人・与謝野晶子のことである。つまり本書は与謝野晶子の伝記マンガということになる。一昔前なら,学習マンガとか歴史マンガとか伝記マンガというと学者さんが監修者に付き,どんな仕事をしたか知らないが,大概漫画家の持ち味をものの見事にぶち壊してくれた愚作とまでは言わないが凡作が殆どで,エンターテインメントとしてはまあ面白いとは言いかねるジャンルであった。しかし,80年代後半辺りからマンガを良く知った原作者が付いたり,漫画化本人が資料を漁ってしっかり構成した作品が増え,面白さはかなり改善されつつある。それでも玄人筋にはイマイチ気になる部分が残っているらしく,竹宮惠子御大の大作である「吾妻鏡」に対しては,評論家・村上知彦がこのような不満を呈している(「平安情瑠璃物語」解説より)。
「・・・彼女か近年試みている,中世の武士たちを描いた歴史まんがには,実をいうとさほど関心を引かれないでいた。史実を踏まえようとする手つきの誠実さがじゃまをして,作者の持ち味である,主人公を孤高に押し上げてゆくエキセントリックなまでの精神の純粋な虚構性が,十分に広がってゆかないように感じたからだ。」
実は本書を読んではたと気が付いたのは,この村上が指摘した「史実を踏まえようとする手つきの誠実さがじゃまをして」という文章であった。いや,面白いのである。高橋独特のコメディセンスは情熱的過ぎる与謝野夫妻のバトルからオドロオドロシサを見事に換骨しているし,平塚雷鳥らとの論争も陰険にならずに済んでいる。
しかし,どーも不満なのだ。
高橋の持ち味である「天空に突き抜けたユーモア」が十分に突き抜けていないように思えるのである。どーしてかな・・・と読了後に少し考えた結果,問題はこの作品のページ数の少なさではないかと思い当たった。180ページで,エネルギッシュな与謝野晶子にみなぎる「生きる力」を天空に放り出すには,いささか短すぎた。振りかぶって放り出すに至るタメや間を挿入する余裕がないのである。個人的にはこの倍あれば,もっと主要なエピソードを膨らませることが出来たのではないか,と思えて仕方がない。
とはいえ,失敗作と断定するには至らない。その辺はベテランの強みであって,読ませる力は十分にある。与謝野晶子の生涯をうまくまとめて見せてくれているから,国語の副読本にも十分に使えるだろう。ワシは少し物足りなさを感じつつも,晶子の持つナニワの生きる力には共感できた。そーだよな,「生きる力」なんて教育でどーこーできる代物じゃねーんだよな,結局,と教師にあるまじき暴言まで吐いてしまうのであった。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-19-960307-7, \657
前作発売から5年,満を持して登場した傑作4コマ漫画の第2巻の発行を祝し,ワシはファンレターを送りたいと思う。曰く,
西先生はお喜び下さるであろうか(遠い目)。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-309-01741-X, \1900
原稿落としの天才漫画家・江口寿史が自身のWebサイトで連載していた日記をまとめた単行本。オマケに,編集長を務めていたComic Cueに掲載された日記と,山上たつひこの復活漫画をアシストした記録漫画である「金沢日記」も収録してあり,その結果,全570ページを越える分厚さとなっている。発行されたのは昨年の12月で,ワシが購入したのもその頃であるが,「毎晩寝る前にでもチビチビ読ん」(あとがき)だ結果,読了したのは,論文下書きに気分が乗らず悶々として過ごしたこの土日にかけてとなった。ま,最後は半分以上一気読みだったが。それもそのはず,面白いんだもん。確かに自身でこれを「クズの日記」と称しているだけあって,飲んだり食べたりしている記述が多いが,そればかりではない。映画評あり,ショッピング評あり,ラーメン評あり,なんつーかこー,人生楽しく生きているということが良く分かる爽やかな空気が全編に漂っている文章なのである。
おっと,ここで誤解してはいけない。江口寿史は,原稿落としまくっても楽しく生活できる見本,では決してない。
逆だ。
江口には,生活レベルをさほど落とさずに妻子を養っていけるだけの画才がある,ということを本書は見事に活写しているのである。
勿論,江口はそんな露骨なことはストレートには言わない(ギャグでは言うけど)。しかし,「パパリンコ物語」も「うなじ」も「イレギュラー」も,長い連載作品はみーんな中途半端に終わってしまっているのに対し,一ページ漫画「キャラ者」や単発のイラストの注文は,編集者をきりきり舞いさせつつもほぼ完璧にこなしているのである。だからこそ,イラストレータとしての信用は落とさずにやっておれるのであるし,その実績と評価があってこそ,何度落とされても「やっぱり,長い作品にチャレンジして欲しい」という期待が続いているのであろう。
本人がダメダメクズクズと連発するのは,当人に才能がないわけではなく,自分に対する要求水準が高い証拠(by いしかわじゅん@BSマンガ夜話)という,冷徹な事実を見据える必要がある。本書は決して,ニートやフリーターを甘やかせるための口実には使えない,プロの仕事と厳しさを伝える漢(おとこ)の書なのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-09-389056-0, \1000
ここんとこ,ゴー宣ことゴーマニズム宣言とはご無沙汰である。ここでも何度か書いてきたが,主張がマンネリ化したため,エンターテインメントとしての面白みが薄れてきたからである。同じことは,愛読していた藤原正彦の著作にも言える。「国家の品格」がベストセラーに入ったのは,その筆力と主張の見事さ(正しさ,ではないよ為念)から当然と言えるが,ワシは一見して購読するのを止めてしまった。「情緒」と「国語力」の主張のないエッセイなら喜んで読んだであろうが,それの連呼ばかりでは「あーあー分かった分かった」と言いたくもなるのである。藤原といい,小林といい,どうして保守論者の主張はこうも同語反復が多いのであろうか・・・おっと,これはサヨクにも言えるね。兎も角,己の思想信条を声高に連呼し続けられれば,どうしたって飽きられてしまうのである。もう勘弁してくれと言いたくもなるのである。
かようにして,ワシとよしりんは倦怠期の夫婦関係の如く疎遠になっていたのであるが,ゴー宣掲載誌をチラと眺める習慣だけは続いていたのだ。そんな折である。よしりんが目の病気になり,ゴー宣が休載となったのだ。
ありゃぁ,こりゃ大変だ。復帰できるかな?・・・と心配していたのは杞憂も杞憂。転んでもただでは起きないエネルギーの持ち主であるからして,重度の白内障に罹って入院し手術,そして退院して短期休養,という一連の事件を作品にしてしまったのである。それも書き下ろし160ページ! ホントに病み上がりか?というぐらい,充実したテンションの高い作品に仕上がっており,しかも殆ど「いつものアレ」的主張がない。これはうれしい,国家主義者ではない,純粋なエンターテナーよしりんを楽しめるではないか。ワシが本書を購入してから小一時間で一気に読了してしまったのも無理はないのである。
「えー,小林よしのりぃ~?右翼だろ~?」という向きにもお勧めの,無難かつ楽しめるエッセイ漫画本である。損はしない。どーせ年寄りになればみんな白内障になるんだから,予行想定演習のつもりで読んでおくと,いざ目が白くなっても,「白内障の手術?軽い軽い,わっはっは」と笑い飛ばせること請け合いである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-06-314373-2, \524
北道正幸は困った漫画家だ。興味のない付録のフィギュアを溜め込みつつ,あの重たい月刊漫画雑誌アフタヌーンをワシが毎月欠かさず購読しているのは何のためだと思っているのか。もちろん,「もっけ」「るくるく」「神戸在住」「G組のG」「そんな奴ァいねぇ!!」「ああっ女神さまっ」「ヨコハマ買い出し紀行」「ラブやん」のためでもあるが,北道が途中で投げ出してしまった長編連載「ぽちょむきん」のためでもあるのである。つまりワシは少なくとも購読目的の1/9を北道の連載放棄によって失ってしまったのである。どうしてくれよう・・・そんな思いを持つ購読目的1/9欠落読者はかなりの数,存在しているものと思われる。何故なら,「ぽちょむきん」連載当時から連載放棄の現在に至るまでちみっとずつ掲載されてきた4コマ猫漫画を収録した本書が,2005年1月の発売以来,9回も増刷されまくっているからである。これは,「キタミチのハイブロウ過ぎるカルト4コマならこの程度じゃねーかぁ」という,購読目的1/9欠落読者を舐め腐った編集者の部数判断ミスという範疇を超えたキタミチの連載再開への期待が,「きゃぁこのねこかわいー」というミーハーパンピーに上積みされた結果といえよう。まったく証拠はないが。
とゆーことで,キタミチの今後の労働意欲を高めてもらうべく,発売から一年も経っておせーぞバカヤロー的非難を覚悟しつつも,リストラパパの如く打たれ強いワシは札幌の紀伊国屋書店で本書を購入したのである。せめて\524中の印税分ぐらいは性根を入れ変えて働いてもらいたいものである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-06-275330-8, \619
本書は北海道民なら知らぬものはないデパート「丸井今井」が,東京の大手デパート「伊勢丹」の系列に組み込まれていく,その現在進行形のドキュメントを活写した文庫オリジナルの読み物である・・・と思って手に取ったあなた,間違ってはいないが,それはちょっと違う。違うぞ。
中心市街地の一等地にドンと構えたデパートという業態が苦戦を強いられている現状はワシも日々のニュースから知っていた。実際,ワシの現在の職場から程近い50万都市・浜松市でも,地元に古くから根付いてきた「松菱」が倒産したし,その近くに市の肝いりで建設された「ザザシティ」も苦戦を強いられているようである。浜松に限らず,全国レベルでさほど大きくない地方都市ではどこでもデパート店の苦戦が伝えられている。これは,郊外に広大な駐車場を擁する大規模なショッピングセンターが台頭してきたことと,人口減少社会になって消費自体にさほどの伸びが今後望めないことによること,この二つが大きな要因と言える。つまり,地方都市のような限られた人口の地域においては,流通業は限られたパイを囲い込むチキンレースを生き抜かねばならない状況なのだ。ま,流通業に限らない現象なんだがね。
札幌市民から「丸井さん」とさん付けで呼ばれ親しまれてきた老舗デパートが直面した危機は二回あった。一度目は創業者一族出身社長が自身の投資失敗による膨大な借金を会社に背負わせたことによる人的なものである。しかし,その後訪れた二度目の危機は前述したような流通業とそれを取り囲む社会的変化によるものである。これは現在進行形であり,今も丸井さんを苦しめ,伊勢丹のような大手資本に頼る割合を増やしつつあるのだ。 本書の記述のうち,この「二度目の危機」における社会的状況の解説の比率がかなり大きい。執筆者が経済部所属の記者だということもあろう。しかし,逆に考えれば丸井さんの現状を正確に伝えるにはそのような記述が不可欠であった,ということでもあるのだ。
とゆーことで,「血沸き肉踊る迫真のドキュメント」を期待する向きに,本書はあまりお勧めではない。それよりは丸井さんと同じ社会的状況で日々悩んでいるワシみたいな現役中堅労働者の方が,読み進むにつれ自分の首を絞めるようなマゾ的快感が得られるであろう。実際ワシは読了後,身に迫る出口のない状況にいることを痛感させられ,他の誰かにも同じストレスを感じさせてやろうと,本書を持ってお勧めして回りたい思いに駆られているのである。
あなたも,丸井さんと一緒に苦しみませんか?
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-314528-5, \1500
仕事集中期間なので,ロクに本も読まずに頑張っていたのだが,昨日は気の緩みかとうとうダウンしてしまい,布団の中で一日中ゴロゴロしていた。そんな時,枕頭に本書が積まれていたのであるからして,読まずにおられるはずもなく,つい一ページ目,二ページ目・・・と進んでいくうちに,全239ページを全て読了してしまったのであった。あああ,ダメだぁ,高校時代に筒井康隆全集を全て読破した結果,その計算されつくした破滅的文章の虜になってしまい,以来,より過激なものを求めて早20年,その本家本元が久々に著したドタバタ悲喜劇長編小説が出たからには買わずには,読まずにはおられようかってんだいっ。爽快じゃぁ爽快じゃぁわはははははははははは・・・仕事の進展は神棚に上げて拝んでおくことにする。
止められなかった理由はもう一つあって,章も節も,つまり区切りというものが一切ないのである。発端に和菓子屋のご隠居・九一郎が,友達の老人の家にワルサー(ワシにとっては,るぱーんさんせいのシンボルなのだが)を懐中に忍ばせて訪ねていく場面から最後のクライマックスまで,一行空きや楽譜(作詞は作者,作曲はツツイストにはお馴染みの山下洋輔)を除けば全く休憩なし,緊迫した状況が時間の連続性と同等の濃度で延々と書き連ねられていく。
多分,本書については,「老人版バトル・ロワイヤル」というまとめ方をされることが殆どであろう。実際その通りではあるのだが,「人間狩り」から「敵」にたどり着いた,文字通り銀齢を経た天才作家の書く作品であるからして,単純に面白いというだけではなく,一種の「枯れ」を感じさせるまでに昇華している。結末に関しては「甘い」という評もあろうが,老いるということは,つまりこーゆーことが骨身に染みて理解できるとゆーことなのだろう。
ああ結末を,粗筋を書けないのがじれったいっ。言ってしまいたいっ,我慢できそうにないっ。こんなに沢山の老人が登場するのに,迂闊に紹介すればネタばれになってしまうではないかっ。だれか本書を読了して満足しているツツイストがいたら,是非とも「誰が理想の老人か?」座談会を開きましょうぞ。ちなみにワシはやっぱり津幡教授・・・になりたいけど,多分,三矢掃部のような浅ましい醜態を晒すに違いないのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-725617-7, \638
今では古典になってしまったが,成長のモデルとしてロジスティック曲線というものがある。グラフにするとこんな感じである。
特徴は,成長の速度が三パターンに分類できるところにある。
勃興期(ネーミングは自己流です為念)の立ち上がりが遅く,急成長期に一気に駆け上り,飽和期には成長がほぼストップする。
本書で述べられているのは,著者が覗き見た急成長期のテレビ業界である。特に「放送作家」が大量に必要となるバラエティのはしり番組について,日本テレビの立役者であった井原高志を中心に描いている。それが本当に急成長期=黄金時代であったかどうか,ということについては異論もあろうが,TV番組制作のシステムが確立し,「イグアノドンの卵」→「シャボン玉ホリデー」→「11PM」→「ゲバゲバ90分」という,今でも人口に膾炙する名番組の多くが生まれていった時代であり,その後はオリジナリティが払底していったところから見て,概ね著者の見方は正しいと思われる。
小林信彦の偏見はつとに有名だが,客観データと他書からの引用も豊富な本書の記述自体には見るべきものが多い。飽和しまくって,これから先は現状維持が精一杯という時代を生きねばならないワシらとしては,単に急成長期の立役者達の活動を羨ましがるのではなく,そこからせめて現状維持のための知恵を授かりたいものである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-253-10537-8, \590
昨年に引き続き,今年も最後は夢路行の,それも採録ではない最新刊で締めくくることが出来,ワシは大変うれしい。
居職である漫画家,特に女性漫画家は必ず仕事場,もしくは自宅にペットを飼っているという。ことに猫が多いようでだ。で,そーゆー境遇だと,つい猫をわが子のように愛しんでしまうらしい。故に,親バカ化した漫画家は,エッセイのネタに「わが子」を描いてしまいたくなるようで,その結果,女性漫画には「親バカ漫画」なる分野が確固として存在するようになったのである。そーいやコミケにも「ペット」というジャンルが出来て久しいよな。
親バカ漫画の内容は大概似たり寄ったりであるが,数が多いと傑作も出るもので,古くは大島弓子のサバや,大雪師走のハムスターのように名作を生んでしまったりする。夢路にとっての猫は不可欠の友,というよりは,適度に付き合っている知り合いという感じであるから,擬人化するまでに感情移入されたサバにはなり得ず,故に,本書はハムスター観察日記猫バージョン,という淡々とした日常エッセイになっている。ま,夢路らしくていいやね。暫くは連載が続くようであるから,是非とも傑作にのし上がって行ってほしいものである。
大晦日までみのもんたとお付き合いしたくない向きには,除夜の鐘を遠くに聞きつつ,まったりと本書を読むのがよろしかろう。
あ,一度はカバーを取るのをお忘れなく,ね。
アズマニア1 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-15-030543-9, \600
アズマニア2 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-15-030550-1, \600
アズマニア3 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-15-030558-7, \600
本書は本年(2005年)初頭に失踪日記でブレイクした吾妻ひでおの漫画短編集であるが,今年の新刊ではなく,初版は1996年3月,5月,7月となっている。しかし,ワシが購入した第2版は3冊とも2005年5月31日に刷られたものである。つまり,失踪日記が予想外にブレイクしたため,それを当て込んだ早川書房が慌てて10年ぶりに再販したと思われる。事情はともかく,吾妻ひでおが元気だった頃の傑作集が日の目を見るのは嬉しいものだ。
とり・みきによる漫画家へのインタビュー集「マンガ家のひみつ」(徳間書店)が刊行されたのは1997年である。収録されているのは,ゆうきまさみ,しりあがり寿,永野のりこ,青木光恵,唐沢なをき,吉田戦車,江口寿史,永井豪といった面子で,これらは全て雑誌に連載された記事のインタビューが元になっている。データを重んじるとりの著作らしく,インタビューの最後には1997年当時の単行本リストが漏れなく付記されている,よく出来た本である。もっとも懲りすぎたためか,インタビューから2年も経って刊行されており,故に,インタビュー自体は全て1995年に収録されたものとなっている。
このインタビューの最後を飾っているのが,とりがマイフェイバリット漫画家と呼ぶ吾妻ひでおである。これだけは連載されたものではなく,この単行本のために語り下ろされたもので,もちろんこれも1995年9月のもの。失踪日記の巻末対談で最初に言及されているのがこのインタビューである。
今,この「マンガ家のひみつ」を読み直して気がついたのは,吾妻の失踪が1985年から始まっていたんだな,ということである。いくつか小さな失踪があった末に,1989年の失踪(「夜を歩く」編)と1992年の失踪(「街を歩く」編)に至ったようだ。このインタビューではとりが「あえて訊く決意をして」(P.272)臨んだだけあって,失踪日記のダイジェスト編になっている。だから,今年になって失踪日記が出版され,それを読んだワシは,少なくとも失踪部分についてはさして驚かなかった。予習していたからね(藁)。アル中病棟編はさすがにびっくらこいたけどさ。
さて,アズマニアである。ここに収録されている中短編のうち,失踪後に執筆されたものは一つしかない。1994年にコミックトム(休刊中)に掲載された「幻影学園」(3巻)である。実はこの時,ワシは地の果て能登半島の奥地で掲載雑誌を講読していたのである。で・・・軽い違和感を覚えたのを記憶している。今これを読んでみても同じ印象で,1980年代に入ってからの,絵からつやと色気が匂い立つようになった作品と比べると,明らかにキャラクターから精気が消えうせている。一生懸命スラップスティックをやろうとしているのは分かるのだが,かえってそれが痛々しい。雑誌で読んだ時にはその理由が分からなかったが,今になると良く分かる。これはちょうど失踪から戻り,アル中になるまでの時期に執筆されたものだからである。思えば,この時期の,ギャグへの執着がアルコールへ走らせたのではないか・・・。
してみれば,本作品集は残酷である。吾妻ひでおが自覚的にマイナー志向となり,不条理日記をモノにしてからエロスを満載する作品を描き,失踪後の低テンション作品までの全てがここに収録されているのである。よって,アル中に至る前年の1996年に刊行された,解説も何もない粗末な編集の本書は一種のタイムカプセルとなっている。それが今年,失踪日記のブレイクによって発掘されることになったのである。10年ぶりに再び日の目を見たこの作品集は,失踪日記で初めて吾妻ひでおに触れた読者にとっては,失踪に至る吾妻の苦闘とアル中直前の虚脱を学習できるよい参考書でもある。
心して読みたまえ>新規吾妻ファン
[ Amazon ] \3990(税込)
新聞サイトのベタ記事にこのDVDが紹介されていたので,速攻買い。価格は映画のDVDに比べるとちょっと高く感じるが,そんなに数が出るとも思えないので,妥当なところであろう。
Jazzサックス奏者・坂田明のミジンコ好きはタモリの宣伝も手伝って,かなり有名である。しかしどの程度の趣味なのか,ということについて詳しく知る人はそれほどいなかったのではないか。当然ワシもその一人で,せいぜい金魚と隣り合わせの水槽にミジンコを飼っているだけなのだろうと思っていた。
しかしそれは完全な誤りであった。坂田明はミジンコ学者なのである。自宅の一室に研究室並みのVTR付き顕微鏡を据え,微に入り細に入り,水滴に閉じ込められた一匹のミジンコを観察しつくすのである。坂田は水産学部を出ており,機器の扱いにある程度通じているとはいえ,ここまでミジンコに入れ込むとは尋常ではない。これは学者の仕事である。
このDVDは,坂田による学術的なミジンコの解説が主軸となっているが,時間的にはミジンコの物言わぬ映像が多いように思える。これがNHKのドキュメントであれば,3DCGでわかりやすい図解をするところを,全てミジンコの顕微鏡映像を淡々と流すだけである。静かなアルトサックスが奏でる音楽と合わせると環境映像のようであるが,むしろ「分かりやすい解説」,いや,「分からせてやる的な解説」に慣れすぎている我々は,このような本物の映像のみが語り得る情報を,自分の頭をフル回転させて想像し,受け取るべきなのではないか。
例えば,ミジンコには殻があり,二枚貝のような形状をしている,ということを説明するには,3DCGを作り,それをグルグル回転させればよい。それに対し,この坂田のDVDでは,殻の裂け目からチラチラ動く足が良く見えるよう,縦になったミジンコの顕微鏡映像しか見せてくれない。しかし,我々はそこで想像するべきなのである。いや,かつては想像していたのだ。教師は自分勝手に自分の価値観を押し付けるだけの教育をしていた時代,TVでも字幕スーパーが要所要所に現れたりしなかった時代には,学生は一定の「努力」の末に学問を修め,視聴者は自らの「想像力」の働きによって番組の流すメッセージを受け取ることができたのである。
このDVDを面白がれるかどうかは,自然科学に対する興味の有無のみならず,昨今では薄れてしまった真の映像が発する情報を想像力を持って理解することができるかどうか,そこにかかっている。それができなければ,単なる透明な生物と坂田の奏でるミジンコ音楽によって構成された環境映像にしかなり得ない。心して視聴して頂きたい。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-8401-1337-8, \514
ワシは自分の意思が薄い人間が大嫌いである。もちろん,意思がありすぎる人間も嫌いであるが,意思がないよりはマシである。世の中,自分の思い通りにならないことが多いのは当然であるが,時間と暇と住む場所さえ確保できているのであれば,自分次第でどうにでもなることも多少は残っている。自己表現という奴はその代表的なものであって,文章を書いたり漫画を描いたりアニメを作ったり(これはちと大変だが)することは,自分の意思さえしっかりしていれば何とでもなるものである。それが商売となると売れなかったり酷評されたりと,思い通りに金銭を得,評価されることは難しいが,表現を捨てるかどうかは自分次第である。
本書のウダウダしたあとがきを読んでいて猛烈に腹が立ってきたのは,著者の愚痴っぽさもさることながら,コツコツと積み上げ高めてきた表現能力をしょーもない理由で捨ててしまったことを知ったからである。もちろん,白井は白井なりに熟慮の結果なのであろうが,本書を編む土台となった角川あすかコミックス版3冊(1991年刊, 1994年刊, 1997年刊),及び希望コミックス版三冊(「GOGO玄徳くん!!」 2001年刊, 2002年10月刊, 2002年11月刊)を後生大事に抱えていた愛読者としては,「漫画家を辞めただぁ,ふざけんな!」と憤ってしまうのである。
申し訳ないが,デビュー当時の白井の絵は見られたものではなかったと記憶する。人物はゆがんでおり,シリアスものとなればどーにも不恰好で,人には薦められたものの,あすかコミックスから刊行されていた黒の李氷シリーズなどはどーにも読む気になれなかった。しかし,絵が下手,ということはギャグ漫画にはむしろプラスに転化する。とり・みきが言うように,絵が多少ゆがんでいたとしても,それがギャグの勢いを生かすことに繋がったりする。4コマではあるが,この「STOP!劉備くん」シリーズは,時事ネタをうまく三国志のキャラクターに嵌め込んで,しょーもないネタを笑える漫画に昇華させることに成功している。未だに復刻を望む読者が多く,それ故に今回新たに新作も加えて編みなおされたのは,白井の才能が一定のレベルに達しているという証である。
しかし,このシリーズをちまちまと続けつつも,白井は表現のレベルを更に上げていったのである。その成果は1997年に刊行された「賢治と水晶機関車」(あすかコミックスDX)に結実した。ワシは書店でこれを新刊書のコーナーで見かけて手に取り,どれだけ下手か(我ながらヒドイ)を確認しようとしたのであるが,一見して驚愕し,迷わずレジに持っていったのである。
書名から分かるとおり,これはは宮沢賢治の物語世界を下敷きにした短編を収録したものであるが,宮沢賢治の原作をなぞったものではない。主人公には中学生の宮沢賢治と友人の銀茂を据えた,賢治テイストではあるがオリジナルの物語である。この作品の絵のレベルは,デビュー当時のへたっぴぃなものと比べると,とてつもなく上がっている。勿論,絵に加えて物語の構成も優れたものになっている。ワシは「STOP!劉備くん」とは異なる世界を展開させつつある白井に驚愕したのであった。
その白井がだよ,体調が悪いならともかく,回復しつつあるというのに筆を折って看護師になるだとか,そのために予備校に通って楽しかったとか,面接を受けたけど(本人曰く)年のせいで落っこちたとか,ウダウダウダウダ・・・と本書のあとがきに書いているじゃねーかよ。
ふざけるんじゃない!
ワシは期待していたのだ。
「STOP!劉備くん」の続編が出るのを。「賢治と水晶機関車」で見せた表現能力の更なる高みを。その期待を裏切られたのである。一読者の勝手な言い分ではあるが,勝手なので勝手に言わせてもらう。まだまだワシは待っているのである。
本書はごく一部を除き,ほとんどが既刊の6冊の編みなおしである(おかげで絵柄がまちまち)が,待ち続けてくたびれ果てた読者としては,ないよりマシ,ではある。故に,ワシは名古屋にて迷わず本書をレジに持って行ったのである。これは期待を込めたエールである。
白井は,また描きはじめるようである。しかし油断はならない。またいつ筆を投げるやもしれぬ。そうならないよう,メディアファクトリーから今後刊行される白井の単行本は,どんなに絵が下手な作品であっても,買い続けねばならないのである。怨念を込めてワシは買ってやる。
白井よ,今度こそ漫画家人生を全うしてくれまいか。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-767966-3, \505
一人暮らしを長く続けているせいなのか,単純に年のせいなのか,「家族の情愛」みたいなことを語ったエッセイや小説を読むと涙腺が緩んでしまう。下手なTVドラマではそんなことはないのだが,ドキュメンタリーなどでそのようなシーンがあるともう涙と鼻水でグショグショになってしまう。みっともないことであるが,このような感情があることで,不心得者であるワシでも人並みな人生を送れているのであろう。故に,「家族の情愛」に反応するこの感情は,一種の安全弁としての役割を果たしているのである。これがなくなれば,年端もいかない子供や足腰の弱い老人に平気で暴力を振うような人間になるに違いない。そうならないよう,人生の安全弁を点検するために時々は「家族」を扱った読み物に触れることは必要である。
本書はそのような目的にジャストフィットした,いや,しすぎたエッセイである。ワシはもう涙ボロボロ,胸の奥底を刺激されつつ本書を読了したのであった。
著者は,古今亭志ん生の娘さんである。故に,十代目馬生,三代目志ん朝のお姉さんでもある。本書はこの3人についての思い出話であるが,破天荒な人生を送った志ん生についての記述が一番多い。志ん生についてのエピソードは今でも噺家の枕に登場するが,肉親から直接聞かされると妙に切なく感じてしまう。
例えばこんな話がある。著者が子供の頃は貧乏のどん底にあったが,糟糠の妻であった美濃部りんは,正月と盆には必ず新しい着物を子供にあつらえていた。しかしそれも,次の年には箪笥から消えてしまう。「お父さん(志ん生)が持ってっちゃうのよ,質屋に。」(p.45)
また,第二次大戦末期に東京が空襲に晒されるようになると,「お父さんは,あてになんない」体たらくである。「何しろ空襲警報が「ウーッ」って鳴ろうもんなら,一目散で逃げ出すんですよ。」 挙句の果てに,「迷子になっちゃう。だから,あたしたちが後を追っかけて,捕まえなきゃならないんですよ。これが空襲のときの日課。」(p.70) ・・・結果,志ん生は円生と共に満州へ慰問,というか逃げ出すことになる。
今だったら間違いなく即離婚となるであろう情けなさであるが,それがかえって家族の団結を深める方向に作用しているところが泣けてくるのである。もし志ん生が本業の落語においてもさほど目立つ力量を持っていなかったとしても,この家族は最後まで幸せに暮らすことができたであろうと思えてくる。
すべてが壮大な母性に包まれて語られるせいか,ところどころ笑えるエピソードが出て来ても,チクチク胸の奥を刺激してくる。したがって,泣ける話になってくると,もうたまらない。生きている間好きだったウナギを絶ち続けていた志ん朝をしのぶため,陰膳を頼むところなぞもう堪らなく悲しい。「今なら心おくなく食べられるだろうと思ったの。」(p.154) ・・・と書いていても泣けてくる。
ああ,わかった。どうやらワシはオバサンの母性という奴に,めっぽう弱いらしい。それに加えて家族愛。こりゃダメの2乗だわ。安全弁の点検・・・のためだけには,ちっと刺激が強かった。しくりん。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-42161-0, \640
ワシは昔から本を書くのが好きだったのである。何せ修士論文は線型代数のテキストにすべく余計な記述を多数くっつけたし,ロクな知識もない段階でWebのテキストも書き,数値計算のテキストも並列計算のテキストも書き,つい先頃は情報数学基礎のテキストも書いてしまった。もちろんキチンと編集者の目を通して出版社からISBNコードを付記されて世に出たものは一つもなく,すべてが自己満足レベルである。
それでも,まとまった内容をある程度の分量にしてまとめる,という作業をしてきたのは確かである。で,馬鹿なワシでもそれなりに経験を積んでくると,良書というものを書くのはとてつもなくシンドイ作業である,ということは分かってくる。ことに入門書レベルのもので,巷にあふれるITマニュアル本とは異なる内容の,それでいて学術的にもしっかりしたものを書くということは,かなり知識と知恵が要求される作業である。その理由を内田樹は「寝ながら学べる構造主義」の前書きにおいて,次のように述べている。
「よい入門書は「私たちが知らないこと」から出発して,「専門家が言いそうもないこと」を拾い集めながら進むという不思議な行程をたどります。(この定義を逆にすれば「ろくでもない入門書」というのがどんなものかも分かりますね。「素人が誰でも知っていること」から出発して,「専門家なら誰でも言いそうなこと」を平たくリライトして終わりという代物です。私はいまそのような入門書のことを話しているのではありません。)
よい入門書は,まず最初に「私たちは何を知らないのか」を問います。「私たちはなぜそのことを知らないままで今日まで済ませてこれたのか」を問います。
これは実にラディカルな問いかけです。」
・・・書き写していて胃が痛くなってきたが,確かに自分が書き散らしてきたのは「ろくでもない入門書」ばかりであったことは認めざるを得ない。しかし,内田の言う「ラディカルな問いかけ」を行う,ろくでもなくない「よい入門書」を書くのが恐ろしく知識と知恵を要求する作業になる,という理由はよくご理解いただけると思う。このラディカルな問いかけに対しての答えを専門家として用意できない限り,それは「ろくでもない入門書」にならざるを得ないのである。そして巷にあふれるものは,圧倒的多数が「ろくでもない入門書」なのである。もっともそれはそれで「ろくでもない入門者」向けにぴったりであるから,需要と供給の関係故に存在しているのであるが。
養老孟司といえば,今やミリオンセラー街道を驀進中の書き手であるが,本業は解剖学者であり,一昔前の著者が書くものは晦渋を極めた,とまでは言わないが,すらっと意味の通る文章を書く御仁ではなかった。それは自ら言うように,時代遅れの解剖学をずーっと定年まで極めてきた,ということと無縁ではないように思える。大体,時代の脚光を浴びていたとは言いがたい専門分野を選択したという性格は,分かりやすいものとは思えない。しかもあまり脚光を浴びていない,という自覚を持ちながらウダウダと評論文を書くのであるから,その分かりにくい性格とあいまって,文章はどうしてもひねてしまうのであろう。
ワシは一度著者が新聞に書いた短い評論文を課題として用いたことがあるが,これは完全な失敗であった。「勉強になる」という言葉がキーワードとして登場するのだが,文頭では字句通りの意味で用いながら,最後には皮肉を込めた使い方に変化してしまうのである。このじっくりねっとりした論理展開にワシは魅せられたのであるが,若い学生さん向けの文章では決してない。
そんな著者が,中学生向けのちくまプリマーブックスの一冊として,十二年前に書き下ろしたのが本書である。今回それがちくま文庫に入り,ワシは初めて読んだのだが,へぇ~,昔の養老先生でも分かりやすい文章が書けたのだなぁ,と感心した。それでいて,本書は解剖学に対する「ラディカルな入門書」たり得ている。
何せ,本書の第2章は「気味が悪い」である。人体の内部構造を淡々と語るのが「ろくでもない入門書」であろうが,死体は気持ちが悪い理由を語る章を設けているところが凄い。そして,その語りが人体理解への重要なヒントになり得ているのである。解体新書やレオナルド・ダ・ビンチの人体スケッチ画という歴史的事実を織り込みつつ,最後は「分かる」とはどういうことか,という根源的な哲学的話題にまで踏み込んでいく。
まさしく,ラディカルを地でいく展開を経ていく本書は,文章が分かりやすいだけに過激さが際立っている。解剖という行為の意味を突き詰めて,中学生に理解できる平明さで投げ出している本書は,ワシにとっての「ラディカルな入門書」のお手本であり,あと20年かけてこのレベルに近づきたいと念願しているのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7561-4677-5, \2100
ワシは今でも「コンピュータ」という言い方よりも,「計算機」という言い方を取る。これはワシの大師匠の口癖が伝播したものである。つまり,大師匠は本書のタイトル通り,「コンピュータが計算機と呼ばれた時代」の生き証人なのである。実際,富士通の池田敏男記念室に今でも実働展示されているFACOM128Bを操っていた方であり,そーゆー世代なのだから当然である。
実は本書は今ワシの手元にない。もちろん,「いい本だ!」と三省堂書店本店にて直感し身銭を切って買ったことは確かだが,まずは「生き証人」に本書を眺めてもらってその感想を聞きたい,と思い,大師匠にプレゼントしたため,今は手元にないのである。
で,大師匠は本書のページを繰りつつ,懐かしい懐かしいと言いながら日本のコンピュータ黎明期に活躍した「計算機」の数々をご説明下さったのである。豊富な資料写真に付記されたキャプションの正確さにも感心されておられた。
「いい本だ」というお墨付きを大師匠から頂いた本書は,コンピュータの歴史に興味を持つ御仁であれば是非とも座右においておくべきものである・・・と,虎の威を借りてご推薦申し上げる次第である。ワシは来月にも自分用に一冊買っておくつもりである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06140-1, \700
本書については以前もレビューを書いている。この度,職場から一冊推薦書を出してくれと依頼され,その際に本書を推薦して書いた文章がこれ↓。結局,以前のものを一切参照しない書き下ろしとなったので,ここに載せておきます。どーせ,職場でワシの文章なんか読む奴いないしな。
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人格穏やかな人に「面白味」を感じることは少ない。泰然自若として何事にも動じず全てを穏便に受け流す,というのは理想ではあるけれど,全てを飲み込むブラックホールのようでもあり,そこから何かが生み出されることはないような気がするのである。その反対の人,つまり人格穏やかならず,常にいらいらしているような人は,周囲の迷惑ではあるけれども,そこには「迷惑」というコミュニケーションが存在していることになる。
どうも学者先生には「人格穏やか」な人が少ないような気がする。この世界に身を置いて十年ぐらい経つ私には,そう思えて仕方がない。自分も含めて,現状に満足していないことが研究への動機付けになるのであり,それ故に問題解決が出来ずにイラついている,そんな人ばかりなのである。
本書の著者は生物学者であるが,そんなイラチ学者の典型である。さすがに年齢を重ねているだけあってそのイラつき方は尋常でなく,知識の豊富さも加わって,大変面白い「芸」に昇華している。本書は科学技術に関する短いエッセイをまとめたものであるが,専門の生物にとどまらず,地球温暖化問題や環境問題にも不満をぶちまけている。
ここで注意して置かねばならないのは,不満のぶちまけ方に筋が通っているかどうか,ということである。人間とは悲しいもので,感情の極限に達すると論理が破綻してしまいがちであり,特に若い時はこの傾向が顕著である。人間誰しも欠点はあり,自分でもうすうす気がついているポイントを突かれると,どうしても逆上してしまうものであるが,論理が破綻してしまってはどうしようもない。そこはボロクソに叩かれるという経験を積み重ねて,感情の向く矛先をうまくコントロールする術を身に付けなければならないのである。それがうまく行けば,論理と感情が均衡した悪口「芸」として第三者を楽しませることができるようになる。
本書はそのような馬齢を経た上の,論理的な悪口芸で満ち溢れている。ために,現在も感情コントロールの修行中である私が憧れる到達点のお手本となっている。是非とも20年後には池田清彦バリの,論理的嫌味なおっさんになりたいものだと念願している今日この頃なのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-12-003684-7, \880
本書を一言でまとめると,不法滞在者のバングラディッシュ人と結婚した日本人漫画家によるエッセイ漫画ということになる。今回始めてこの結婚の顛末を単行本として刊行したことになるので,高橋由佳利,小栗左多里,流水りんごという国際結婚エッセイ漫画家グループにまた一人お仲間が加わったことになる。
黒川あづさといえば,ワシにとっては青年誌に連載されたラブコメ漫画「リダツくん」の著者,というよりは,やはり「じょりじょり系」ホモ漫画家としてのイメージが強い。
いわゆる男×男(この表記も古いかな)恋愛のジャンルは「ショタ系」「美青少年系」「じょりじょり系」の3つに大別される。このうちショタ及び美青少年系は,じょりじょり系に相対する,頭髪以外の毛を持たない人間しか登場しない「つるつる系」としてまとめることもできる。黒川あづさはデビュー当初この「つるつる系」の作品を描いていたが,そのうち中年オヤジに目覚めたらしく,ダンディかつアンニュイなじょりじょり無精髭漫画家を主人公とするシリーズを描くようになっていった。いわゆるBLと呼ばれるつるつる系作品群とは違い,青年漫画テイストの濃い絵柄だったと記憶する。ただ,作品や単行本に対するコダワリが強かったらしく,それ故なのか,近年はあんましワシの目にとまる所では描いていなかったようである。で,久しく見なかったじょりじょり系作家が,エッセイ漫画ライクな白くて軽い絵になって登場したのであるから,まぁ驚いたのなんのって。反射的に手にとってレジに向かったのは言うまでもない。
で,そーゆー経歴を知っていると,本書においては中年以上のオヤジの描き方が「じょりじょり系」的に丁寧であることに御納得頂けることであろう。資産家である義父や政治家の義兄の絵は力がこもっていて,さすが黒川先生ご健在なり,と拍手を送ってしまうのである。
最後にタイトルについても触れておこう。著者のダンナさんは結婚するまでは不法滞在者として日本で働いていたのだが,前述の通り,実家は資産家であるので,黒川先生は特に狙ったわけでもないのに玉の輿に乗ってしまったのである。で,「アジアの玉の輿」を略してこのタイトルになった,らしい。
まぁそれはいい。しかし,萌えるひとりものとして気になるのは,黒川先生がバングラディッシュ人のボンボンと結婚するに至った理由である。勿論,日本人とは何人かとお付き合いをしてきたのだが,「言葉は通じても本音を語らない」(P.10)野郎ばかりでお気に召さなかったらしいのである。「仕事でもないのにうわべだけのおつきあいするほど私もヒマじゃない」(同上)とは,誠にその通りであり,日本人独身男性を代表して,無駄に時間を使わせてしまったことを深くお詫びする次第である。
しかしまぁ,(現実の)日本男児に愛想を尽かしたおかげで玉の輿にも乗れて,セクシーなおみ足を持つダンナさんとも生活が共にできるようになったのであるから結果オーライ。今後の課題は唯一,本書がそこそこ売れて続編が刊行されて日本での生活を続けて行く事だけである。もしそれが適わなければご実家に戻られて,リッチな生活(だけではなさそうだが)を送る羽目になるらしい。黒川先生のお眼鏡が適わなかった日本人ひとりもの男としては,本書を身銭切って購入し,ご夫婦の日本生活への援助をさしあげることで,せめてもの償いをさせて頂きたく,今後のご活躍をBlogを見つつ,お祈り申し上げます。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06271-8, \700
ふーん・・・と感心するところの多い分析が随所に見られるが,最終的には本書で提示されている「萌える人生賛歌」には全く同意できなかった。
決定的だったのは,著者自身が「萌え尽きる人生」を全うする気がなく,自分はそのうち社会的ステータスを上げて恋愛して結婚してしまうかもしれないが,萌える人生そのものは社会として認知し,推奨しましょう,と主張している次の個所にぶち当たったことである。
「僕はよく『萌えるとかモテナイとか言うけど,もしモテたらどうするんだ』『本が売れたらモテるのではないか』などと言われるのだが,僕は僕個人が『恋愛資本主義』的な価値体系の中で首尾よく自分の商品価値を上げてモテました,めでたしめでたし,というふうには考えていない。これは僕個人の問題ではなく,社会全体の問題なのだ。
恋愛とは個人の問題ではない。社会問題である。」(P.166)
いや,「結婚」は社会問題ですが,「恋愛」はやっぱり個人の問題でしょうよ。ま,それはともかく。
申し訳ないが,ワシはごく普通(異論があるかも知れぬ)の常識人なので,自分が出来もしないことを他人(この場合は社会だが)に軽く押し付けるような言説を信用することはできない。オウム真理教事件を経験した日本社会としても,そのような覚悟のない「萌える人生教祖」においそれと若者が追随するのを容赦するべきではない。結局,あの教祖は批判能力のない若者をかどわかして食い物にしただけであるが,本田透も,「俺は萌えて尽きるしかないのかなぁ」と消沈している奴を,「そのまま萌えて行きなさい」と優しく諭すことで自身の論を彼らのバイブルとし,自分の著作を買わせ続けるための市場を作ろうとしているだけなのではないか,と思えて仕方がないのである。
現実との折り合いのつけ方は人それぞれで,趣味や仕事に走ることで,恋愛や結婚から「降りる」というのも選択肢の一つではあろう。しかし,現実社会で広く認知されている「人はある一定の年齢以上になったら結婚すべきである」という常識を,キモいだのウザいだの言われたからといって,そう易々と放棄して良いものだろうか。常識ってのは,疑ってみることも,実践してみることも,そしてそれをやり続けることも必要なものなのである。
まあねぇ,面倒なことも多いけど,ほんと,生身の女性ってのはいいもんですよ,振られてもさ,ということだけは「萌えるひとりもの」の先達として,後輩の方々にお伝えしておきたい。・・・ちっ,思い出しちゃった(泣)。本田透のスカタンのせいだな。今日は一日,「帰ってきたもてない男」小谷野先生と一緒に泣き暮らし,明日からは気分を変えてまたチャレンジしよーっと。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-883932-2,\1500
世代的にはドンピシャリだったにもかかわらず,いわゆる「ロリコンブーム」という奴とは無縁の人生を送ってきた。まだ「マカロニほうれん荘」の余韻の残る少年チャンピオンで内山亜紀がデビューした時も,「何これ?」と思っただけで完全スルー。別段ワシが倫理的であるとゆーわけではなく,単に「つるぺた」には全然リビドーを感じない性癖であったからに他ならない。おかげで,たまーに報道される未成年買春事件を見ても,世間には物好きがいるなぁ,と思うぐらいで全く同情できないのである。何が楽しくって「じょりじょり感ゼロ」の子供相手にSEXせにゃいかんのだよ。ふんとに。
だもんで,本書の著者が「ロリコンブームにおけるカリスマ」だと言われても,あそー,ふーん,ってなもんで,全然存じ上げなかったのも無理はない。もし著者が吾妻ひでおに手紙を送らなければ,そしてその手紙は誰に見せても良いと断りがなければ,そしてそして「Comic 新現実」で吾妻ひでお特集がなければ蛭児神の自伝連載が始まることもなく,本書が刊行されることもなかった訳である。ま,それも著者と吾妻ひでおとは浅からぬ因縁があったからこそ,なのであるが,それは本書を読んで納得して頂きたい。
それよか,ロリコン市場(とゆーものがあったらしい)を退いてからの著者の生き様の方がずっと読んでて興味深かった。本書のタイトルである「出家」生活はここから始まっているのだが,まぁなんとゆーか,宗教界というものは大変なところであるなぁ,と嘆息することしきりである。それに輪をかけて奥様との日常生活がまた凄まじい。著者はワシより10歳ほど上であるし坊さんであるが,それ故に一種の悟りの境地に達しているのだろうなぁ,そうでなきゃこういう人生はそうそう送れるもんじゃない,と考え込んでしまったのである。
業田良家が「自虐の詩」で示した「幸も不幸もなく,ただ人生がそこにある」という達観の実例を見る思いがする本書は,ロリだのショタだのという単語とは無縁の人でも引き込んでしまう普遍性を帯びている。その割には配本数が少ないのか,先日東京の書店をうろついた際にはついぞ本書が平積みになっているのを見かけなかった。わずかに数冊,背表紙をこちらに向けていたのを3件目の大書店で発見し,いそいそと購入してきたぐらいである。折角の人生読本なのだから,もう少し人目につくように売っていただけませんかねぇ>角川書店。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-09-179276-6, \838
ここでも取り上げた「上京ものがたり」「女の子ものがたり」に続く第三弾。「ものがたり」シリーズは一応これで完結らしい。内容を簡単に言うと,「うつくしいのはら」を真中において,雑多なお笑い漫画と「朝日のあたる部屋」を前後にくっつけた構成。「うつくしいのはら」は浦沢直樹のプルートゥ(プルートでいいじゃんよ)に寄せたものらしいが,まあ殆ど関係ない。これ,翻訳すればノーベル文学賞,とは言わないけど,児童文学賞ぐらいは取れそう。内戦が止まない国ではこんな日常で溢れ返っているんだろうな。
ちなみに,ワシも無料アルバイト情報誌はよく読みます。35歳以上になると途端に求人が減っていく現実を知り,将来に対する不安でいっぱいです。住宅ローンや扶養家族を抱えてないだけサイバラ先生より身軽ですけどね。ふんっだ。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7580-5182-8, \552
著者本人も「呆れたに近い」暴挙とも思える夢路行全集刊行も,ついに最終刊までたどり着いた。これも一重に,途中合併して経営基盤を強化した一迅社の体力のおかげである。愛読者として,厚く御礼申し上げる。
ワシが夢路行を読むようになったのは20世紀も押し詰まった頃からで,そこに至る彼女の軌跡を,今回始めて辿ることが出来た。集英社から単行本が出なくなり,東京三世社(とは独立の編集プロダクションが主導していたようだが)からの出版物のみを読んでいたから,それ以前の作品や,秋田書店移行時までの仕事については殆ど知らないできたのである。
今回の全集を通じてデビュー後20年を越える仕事を通してみると,随分と色々な冒険を重ねているのだな,ということが分かる。ホラーっぽいものから,派手なアクションを伴うものまで,ファンタジーだけではない作品世界が展開されている。しかしそこには独特な雰囲気が必ず漂っていて,冒険しながらも自分の立ち位置が大きくずれることはなかったのである。そこに確固とした意思があったのか,それとも単なる成り行きだったのかは不明であるが,それがなければ一迅社も全集の刊行を決断することはなかったであろう。同じく全集を刊行した24年組の大家達は,自分らの仕事そのものが少女漫画のみならず,他のジャンルの漫画をも激変させてしまったが故に,メジャーに留まるためには,その作風を変えて行かざるを得ない運命にあった。夢路行は幸い,その世代よりずっと遅れてきた世代であり,デビュー時の絵柄はかなり1980年代の「乙女チック」路線っぽい。しかも自ら言うように,あまりうまくなかったせいもあって,時間をかけてコツコツと力量を上げて行かざるを得なかった。そこが1990年代の漫画の変化に,不器用ではあるけれどもついて行けた秘訣ではないか,という気がする。
全集刊行と共に,一迅社の雑誌で続いていた連載「モノクロームガーデン」も終了した。しかし,秋田書店からはこれからも新作単行本が出版される予定になっているし,本人も小さい家を建てるという「野望」をお持ちのようなので,手打ち蕎麦の如く,細く長い活動を続けていくことであろう。
「まあ こんな わたしですけど
長いおつき合いの人も 一見さんも
これからも よろしく 。 と。」(25巻)
あ,いえ,こちらこそ,末永く,お付き合いさせて頂きたく,
よろしくお願い致します。 と。
この全集↑に,今後何巻分,新作が追加されるのであろうか。楽しみである。
[ Amazon ]
CCCD騒動が一段落し,昔の習慣が忘れられずに「真面目に」CDを購入しているオッサンとしてはヤレヤレ,とホッと一息ついているところである。確かに,P2Pを初めとして,The Internet上における違法コピーの流通には目に余るものがあるし,教育や研究という名を借りてコピーしまくるバカ教師も多いから,Copyright holderとしてはふざけんな,と激昂してしまうのは当然であろう。しかしだな,一消費者としては,こちらの私的コピーの権利を必要以上に制限されてしまうのも,また困りモノなんだ。真面目な話,必要以上の権利行使に対しては,消費者運動として不買・不使用を呼びかけることも考えねばなるまい。Creative Commonsの広がりは結構なことだが,それを使用するかどうかはCopyright holderの良心に期待するしかないものであって,Copyrightを意図的に乱用する輩がそんなもの,使う筈がないのである。CCCDが廃止されたのも,真面目なリスナーによる運動の成果と言えるだろう。・・・ま,タツロ―やエーイチにとっては全く関係のないことではあるのですが,ね。
「オマタツ!」というダサいコピーはともかく,オリジナルアルバムとしては1998年のCozy以来7年ぶりだから,確かに待たさた感はある。しかしその間,On the Street Corner3(1999年)やRARITIES(2002年)も出しているし,Sunday Song Bookも続いているので,まあ何とか浮気もせずに我慢できたのである。初回限定紙ジャケ(アナログLPを知らん若いモンには分からんだろうが)をナデナデしながら,いそいそとCDからWindows Media Playerに音源をconvertしたワシは,HDDが擦り切れるほど(嘘)全曲をrepeatしまくったのであった。
Amazonには随分と否定的なコメントが掲載されているが,ワシにとっては簡素な打ち込みサウンドと,服部克久ジコミのClassicalなOrchestrationも,どちらもしっくり来ていて好みである。そんなにクソミソに貶すほどなのかぁ?,と,ボチボチ「高気圧ガール」を聞くと気恥ずかしさを覚えるようになってきた年寄りは,珍しく団塊世代のmusicianを擁護してしまうのであった。
[ 復刊.com ]
何せ絶版長編漫画であるから,今更ISBN番号を書いても,Amazonへのリンクを張っても仕方がないので,復刊.comへのリンクのみを示しておく。書誌データはこちらのページがよく整っているので参考にして頂きたい。ワシも一揃い持っているが,何だか人をおちょくったような表紙で,デザイン的には見事だが,フランス革命という激動の時代を活写している歴史漫画の力作として見てもらえないのではないかと一抹の不安を感じてしまう。まあその恬淡さ,ユーモラスさが倉多江美の持ち味なんだから,仕方ないか。
フランス革命といえば,絶対王政を打ち倒したかと思うと,多数の王族・貴族・政治家を断頭台の露と消し,ナポレオンが皇帝に成り上がって没落した挙句に,またブルボン王朝が復活する,というややこしい経緯をたどった世界史上のターニングポイントとなった事件である。映画や文学の題材としてはもってこいで,本国フランスではいわずもがな,日本でもナポレオンやロベスピエールの評伝がいくつか出版されているし,漫画にもなっている。ワシは仕事柄,数学者に興味があるのだが,ラプラス,フーリエ,ダランベール・・・と今もその名が残る定理を多数残した数学者が多数輩出されたのもこの時代であり,自然とその時代状況にも興味を持つようになった。
しかし,数学者の評伝を読むと,ラプラスとフーリエの評判はヒドく悪い。政治的立場をコロコロと変えて社会的地位を維持したことが悪評の原因(ラプラスは政治家としての能力がなかったことも原因)だが,しかし,これだけ激動した時代に,しかも学問の自立なんて概念のない当時,自身の研究活動に支障のない範囲の経済的生活を維持しなければならなかった彼らが,その時その時の権力者に擦り寄るのはやむを得なかったのではないか,とワシは同情してしまうのである。むしろ反抗し続けて生き抜く人間の方が少数派であったろう。阿諛追従こそ人の常,と思うのである。そして,どーせ権力にへつらうのなら,徹底してやった方がいいではないか,とワシは考えてしまうのである。
で,その時代をそれを実行して,まんまと生き抜いた大物政治家が二人いた。一人はタレイラン,もう一人はフーシェ。片方はナポレオンの下で大臣を務めながら,ナポレオン没後のウィーン会議まで抜け抜けと出席し,片方はロベスピエールの片棒を担ぎながら彼を断頭台へ送り,ナポレオンをも恐れさせる秘密を握る警察大臣として活躍した。ま,最後は神様に懺悔しちゃうんだけど,それも神様という権力に擦り寄ったと言えなくもない。
さて,倉多江美である。熱血とは正反対の白い絵を描く,独特の画風を持つベテランであるが,その彼女が今は亡き(もう復活することはないだろうーな)コミックトムから長編漫画の依頼があった時,フランス革命を描こうと思ったのである。で,自分は誰を主人公にしてこの激動の時代を描くべきか,悩んだはずである。ナポレオンは論外。貧乏子沢山のド田舎島出身者の努力家軍人なんて主人公にしたら暑苦しい。やっぱり恬淡と権力と付き合ってきた政治家がいい。でもタレイランは艶福家っぽいから脂ぎっていて合わないな。フーシェは痩せぎすで警察大臣,陰険で素敵,やっぱりこれにしよっと(想像で書いてます為念)。でも最後は駄目ね。政治家は最後まで風見鶏じゃなきゃ。引き際も大事,食えない古狸は最後も抜け抜けと引退して・・・と,フーシェをモデルにした「コティ」という人物を創造したのである。したがって,本書はコティさんという架空の政治家の周りに,フランス革命の主要を配置した大河歴史ロマン非熱血編,ということになる。
コティさんは修道院のセンセーから,国民公会の議員となり,ロベスピエールの手伝いをしたかと思うとテルミドールの反動の首謀者となり,さらにその反動の余波で自分まで追いかけられる羽目になる。その後,身を隠してほとぼりの冷めるのを待ち,伝を頼ってナポレオンに取り入る。そこで警察大臣なり,時には臨時内務大臣まで勤めるまで信頼を勝ち得るのである。その間,お金持ちのお嬢さんを娶り娘を授かるが,ロベスピエールとの権力闘争の最中に,娘も夫人も病のため亡くしてしまうというエピソードも描かれる。善悪という基準を超えて,盛者必衰の世の中をあるがままの運命を受け入れつつ精一杯生きていく,というコティさんは,ワシにとってはかなり身近な人物に思えるのである。無論,頭は切れるし,風向きを読む感覚に優れているから,そういう生き方ができるわけで,誰もがコティさんになれるわけではない。倉多はその辺りもシビアに描いている。
歴史は馬鹿と熱血が主導して活動することによって,彼らが意図しない形に結晶化したものである。熱血馬鹿になれない,なりようもない大多数の人間にとっては,ある種のパーツとしてその結晶の中に組み込まれるしかない。しかし,パーツにはパーツとしての自由意思というのが厳然としてあり,熱血馬鹿の愚かさも偉大さも,その自由意志によって唾棄されたり愛されたりするものである。コティさんは明らかに賢いパーツの一つであり,その活動が自由奔放であるが故にフランス革命の貴重な語り手たり得ている。その活動そのものがエンターテインメントとなっている本作品は,ワシにとって歴史漫画の,間違いなくベストワンなのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-87317-602-6, \600
小林薫の面白さは「すっぽ抜け」にある。
真面目一本槍のピッチャーが一球入魂の精神で投げたボールがすっぽ抜け,あらぬ方向に飛んでいく。その結果は悲惨であり爆笑ものである。バッターのどたまを弾き飛ばすか,ワンバウンドしてキャッチャーの股間を強打するか,はたまたキャッチャーが捕球し損ねて三塁ランナーが悠々とホームインするか。どーなろうともその状況は,無責任な観客には爆笑モノ,プレイしている当事者たちにとっては悲劇である。小林薫の作品,特に近作は,キャラクターたちにすっぽ抜けの悲劇を演じさせ,読者の爆笑を喚起させる傾向が強い。本作は漫画家と編集者の夫婦が成立する,その前後を描いた連作短編集であるが,日常生活とハードな仕事との両立を目指すべく,物凄いエネルギーで困難に立ち向かっていく主人公の大林薫子の「すっぽ抜け」が見事に表現されている名作である。・・・の割には出版社がマイナーで,書店店頭で目立たない扱いにされているのが残念である。日本の企業なら.bizじゃなくって.co.jpぐらい取れよな>あおば出版
以上が「炎のロマンス」にも通じる小林薫の一般論であるが,この作品にはもう一つ特徴がある。それは大林薫子が全然,漫画家という職業に一生を賭けていない人物として描かれている点である。いや,イイカゲンに漫画を描いている,ということではない。一作一作,連載をこなしていく姿は熱血そのもので,それでこそのすっぽ抜け,なのである。しかし夫となる幼年誌編集者と付き合う前は,玉の輿を狙ってみたり,合コンを画策してみたりと,普通に結婚(恋愛ではない)して専業主婦となることを目指していたりする。結婚後も暫くは仕事を続けるが,それは夫が自分の仕事に理解があるからであって,主婦になれ,と言われたら未練はあれど,従っていただろうという所も描かれている。全然フェミ的ではなくて,極めて平均的日本女子の願望を持っている,何だかいまどき珍しい主人公なのである。・・・ま,最後は自分の業(ごう)に目覚めるんですけどね。
まあ,中年越えると,運命に抗うのではなく,なるようになるさ,という開き直りが自然と身につくものである。それでいて日々目の前のことはきっかりこなしていかないと,運命に流されることも出来ず溺れてしまう,ということも身に染みて知るようになるのだ。そーゆー人生の空しさと厳しさを貫通した「日常生活」を送る手段として,小林薫的すっぽ抜け,というのは案外いい回答なんではないか,という気がする今日この頃なのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-853890-X, \1000
さーて困った。
何がって? 西島大介って,今お前が一押ししている漫画家じゃん,その最新作を紹介するのに何が困っているのか分からんというのか? いや,何と言ったらいいのか・・・つまりこれは物語の体をなしていないんだよ。じゃあ面白くないのかっていうと・・・うーん,これが難しいところなんだな。読者を選ぶ作品なのかって?・・・うーん,そうとも言えるだろうし,そうではないかもしれない・・・我ながら,じれったい,もどかしいんだけど,すぱっと言えないんだ。まあ,聞いてくれよ。
漫画の基本は起承転結っていうじゃない。・・・こんなことを言うといしかわじゅんから今時何を古ぼけたこと言っているんだって怒られそうだけど,物語を読者に分からせるためのフレームワークの一典型であることは間違いない。まず「起」。核となるキャラクターや物語の背景が説明される部分だ。そして「承」→「転」と事件が次々に起こって物語が展開していって〆,つまり「結」となる。もちろん現代のフィクションではこの順番をずらしたりひっくり返したり,ということはザラ。だから承転起結とか結起承転,承と転がくっついてしまっている・・・etc.という物語も珍しいもんじゃない。
で,ものすごく乱暴に言ってしまうと,この西島大介の新作は「結」「起」・・・あとはせいぜい「承」の取っ掛かりまで。それで単行本は完結してしまっているんだよ。Comic新現実の最終号で,西島は「ディエンビエンフー特別編」を描いているんだけど,それは「起」の更に前の話なんだ。だからエンターテインメントとして一番肝心の,血沸き肉躍る展開部分がすっぽり抜け落ちていて,西島はそこを描くつもりは今のところない,ということは既に分かっている(今後描くつもりはあるみたい)。
俺がComic新現実をVol.1から購読していることは知っているよな? この単行本に納められている#1~#5のエピソードはそこに連載されていたものに少し加筆訂正が加えられたもので,Prologueと#6が単行本用に書き下ろされた部分だ。
連載されていた部分はリアルタイムで読んでいて,かなりワクワクさせてもらった(悪趣味かなぁ?)。だもんで,新現実がVol.6で終了して連載が尻切れトンボで終わってしまった後は,単行本化が待ち遠しくて仕方なかった。著者のインタビューが連載の最後に載っていたのだけど,書き下ろしをするって発言していたしね。当然,主人公の日系人・ヒカルと,姫と呼ばれるベトナムの殺人娘,そして米国兵に鍛えられた人間兵器・ティム・セリアズ,この3人のその後がきちんと描かれるものと思うじゃない? それがどうだ,#6ではヒカルとティムのジャングルクルーズが延々と続き,姫は育ての殺人婆さんと畑を耕し続けることしか描いてくれていない。「結」であるPrologueではヒカルの持っているニコンが爆風で飛んでいき,結局最後にヒカルと行動を共にしてたのは誰なのか(まあ見当はつくけど),何も説明してくれないんだ。あーもー,俺の靴下痛痒感,分かってくれる? 最初に単行本を読了した時には,ふざけんな西島!って不貞寝しちゃったよ。だーれがこんな訳の分からん物語を推薦するかってんだっ。
・・・いやだけど,問題はその後なんだ。
・・・気になって仕方がない・・・Prologueがね。ネタバレになるからこれ以上は言わないけど,とにかく,単行本を全部読んでしばらくすると,Prologueの持つニュアンスが頭の中で熟成されてくるんだな。
・・・いや,省略された「承転」部分を自分なりに想像して埋め合わせる,って訳じゃない。逆なんだ。そこはなくても良かった部分なんじゃないかって,何だか勝手に分かった気分になってくるんだよ。俺だけかな?
・・・だから,これは面白い「物語」じゃないんだ。西島描く架空のベトナム戦争に配置された3人のキャラクター,彼らを取り巻く環境,そしてその底流に存在する見えない「物語」の醸し出すニュアンス,そーゆーものを眺める・感じる作品,ということになるんじゃないかな。
・・・そうなんだ,俺はそーゆー素直に楽しめない作品を持ち上げる輩の鼻持ちならなさが大嫌いなんだよ。分かりづらいから面白い,なんてのは邪道も邪道。漫画はインテリのお飾りじゃないんだ。・・・だからこの作品を「面白い」なんて称揚するつもりは全くないし,そんなことはしたくない。・・・でも,やっぱり気になるんだ,ひっかかるんだよPrologueが,今でもさ。
俺が困った理由が少しは分かってくれただろうか? 前作はしっかりした起承転結物語だったので,この作品との構成のギャップには驚かされるよ。
でもまぁ,この作品が理解できるのは俺だけさって感じの文章がWebに氾濫するのは見えているから(何せサラブレット西島だからね),「困った」と発言する奴が一人でもいるってことを知らせるべきとは思っている。
そうね,「不思議な作品」と総括しておこうか。面白いかどうかは保証しないけど。ま,今後続編出るまで待ってもいいかもね。何時になるか分からないけど,それまではやっぱり「不思議な作品」のまま,なんだな。
読む?
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-853888-8, \933
また楽しみにしていた雑誌がなくなってしまった。まあでも予定通り隔月6冊,1年で終わったのだから,見事な去り際である。一応,来春には「ふつ~の」コミック誌がこの連載陣を引き継いで登場するそうなので,それまではこの分厚い6冊を読み返しながら待つことにしよう。
最後なので,気になっていたことを箇条書きにしてみる。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-87257-577-6, \1200
夏目房之介という人をどう捕らえていいのか,少し前まではちょっと迷っていたところがある。
ワシはしょーもない(ホメ言葉です為念)漫画が好きである。「しょーもない漫画」とは,メジャー志向ではないショートギャグ漫画で,メッセージ性皆無,脱力系ギャクが満載で,作者本人は楽しんで描いているものの,一般的人気は取れそうもないな・・・という,ワシが勝手にカテゴライズしたジャンルである。横山えいじ,竜巻竜次がしょーもない漫画の2大作家であり,ワシはこの二人の作品が大好きで単行本が出るたびに買っているのだが,困ったことに人気がないのでなかなか出版されず,店頭にも並ばないから入手しづらいというファン泣かせのジャンルなのである。ワシにとっての夏目房之介像の一つは,このしょーもない漫画を長く描いていた作家,というものであった。多分,純粋漫画作品としては「偉人でんがく」が最後だったと思うのだが,ワシはこの掲載誌を休刊になるまで購読していたので,そーゆーイメージを持っていたのである。
しかし,ワシが最初に嵌った夏目房之介作品は「手塚治虫はどこにいる」という,シリアスな漫画家評論集だったのだ。これに感動したワシは次から次へと漫画評論集を読むようになって,自分のblogで読了した本の感想文を書き連ねるパンピーになってしまったのであるが,ワシにとっての夏目房之介像もこれによって完全に分裂して今に至ってしまったのである。文章が硬く,論理的な説明を丁寧に積み重ねた評論と,しょーもない漫画とのギャップが激しすぎて,ワシの脳内では同一人物としての一致を見ていないのである。
本書は前著「これから」に続くエッセイ集であり,文に添えられているカットを本人が描いているという体裁も版形も,老化していく自身やその周囲を観察し恬淡と思ったこと書いているという内容も全く同じで,違うのは出版社だけである。
ワシは現在三十路半ばを過ぎた人間ドックおじさんであるが,そのぐらいの年齢になってくると,世間と自分との折り合いのつけ方は当に心得てしまっているので,本書で述べられている考え方は「まあ,そんなところだろう」と全面肯定できる。逆に言えば,意外な考え方が示されているわけではないので,あんまし年を取ってから読むものではない本かもしれない。社会に飛び込んだばかりの二十歳代ぐらいに読んでおくと,世間との軋轢に悩んだ時には参考になることが多いんじゃないかなぁ。そう考えると,今は難しいだろうが,熟年離婚に至った経緯と理由を語ってほしい,というのが無責任な第三者の正直な感想である。
しかし一番面白かったのは,ワシが抱いている2重の夏目像が,硬い文章と,説明過多のしょーもない漫画タッチのカットのそれぞれに重なったことである。おかげで,カットはカット,文章は文章で別個に眺めることで2回しゃぶることが出来る,ワシにとってはお得な本になっているのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-344-00792-1, \1400
初めて読んだグルメ本は「恨ミシュラン(上・下)」である。フジオミの新刊である本書を読んだ時,「何故,ワシは,恨ミシュランではなく,これを最初に読まなかったのだろう」と後悔したものである。それぐらい,恨ミシュランは強烈であったのだ。
それまでにも食を扱う漫画は読んでいた。「クッキングパパ」はたまーに荒岩一家の近況を知りたくて買ったりするし,歯医者の待合室に置いてある「美味しんぼ」に手が伸びたりするし,子供の頃に読んだ「包丁人味平」は結構ドキドキしながらラーメン対決を読んでいたりしたものである。これらの作品に登場するキャラクター達は,料理に対して真剣に取り組んでいたものである。うまいものはうまいと言い,まずいものはまずいと言う,真面目な求道者を扱った作品群である。
恨ミシュランには,その名の通り,高級品に対する恨み,怨念こそあれ,食を極めるなどという高尚さはまるでない。「へー,あんたがたこーんなまずいモンをこーんな高い金取ってるわけ?いーショーバイしてんねー」ってな感じで,少なくとも客としてそれなりにきちんと遇されたであろう取材先の店を,気に入らない時には容赦なくコテンパンにけなしまくるのである。この著作以後,西原理恵子は税金をめぐって国に喧嘩を売るぐらいの大家となり,神足裕司はマイルドに物事を語る評論家としてブラウン管(この表現も通じなくなるな)の中から見事な頭部のテカリをお茶の間にお届けするようになった。いわば出世作なのであるが,さてグルメ本としてはいかがなものであったか。
何せ,池袋のスナックランドが高評価なのである。対して神田の老舗がケチョンケチョンの低評価。まあ確かにスナックランドは安いしそこそこ食えるし,老舗の時代がかった対応は癇に障るかもしれない。しかしそこにはどー見ても,恨みというバイアスが掛かっているように思えて仕方がないのである。作品としては最高であったが,アンチグルメ本と捉えるべき本であろう。
本書は「恨み」の全くない,スタンダードなB級グルメ・観光ガイド兼用のエッセイ漫画である。これは別段,著者が訪問先に対して気遣っているわけではない。気に入らないところはそう書いてあるし,しょぼいものはしょぼいと言う。しかし,サイバラとは異なり,フジオミには世間に対するルサンチマンというものがまるでなく,目を皿のようにして「まず貶してやろう」という姿勢は全く見られない。折角出かけるのだから,精一杯楽しんでやろうという至極善人的な観光者として,フジオミは大方,ポジティブに面白がっているのである。
まっすぐな観光を楽しみたい向きには本書をお勧めする。
「けっ,構造改革だか郵政解散だかしらねーが,むしゃくしゃするっ」という向きには,是非とも「恨ミシュラン」を読んで,「人が良かれと過ごしている所にやってきてクソたれる」(by パッポン博報堂さん)快感を味わって頂きたい。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-09-389055-2, \1600
「わしズム」と「Comic 新現実」を併読している人ってどれぐらいいるのかなぁ,と考える。「自由民主」と「しんぶん赤旗」を併読している人に比べれば,多分,たくさんいるだろうとは思う。後者に当てはまる人は,恐らく,政治に興味を持つ研究者やジャーナリストが大半だろう。しかし前者に当てはまる人の多くは,どちらにも「面白い漫画」がたくさん載っているから買っているにすぎない,と,ワシは勝手に解釈しているのである。
これらの雑誌(というより形態としてはムックなのだが),どちらも編集責任者が強烈な個性と思想の持ち主が就いており,「わしズム」は小林よしりんが,「Comic 新現実」は大塚英志が仕切っている。更に,この二人は物凄く精力的に,しかも面白くて売れる作品を自分の雑誌のかなりのスペースを割いて掲載している,という点も恐ろしく似ている。そのため,どちらの雑誌も読み終わると物凄く疲れる。声がでかくてあたり構わず説教をかます教祖様に付き合っているよーな,それでいて話す内容は結構面白いのでつい聞いてしまう,そんな感じでこの二誌との付き合いを続けているのである。どちらも今年中に大幅なリニューアルを控えているようであるが,ワシは今後もお付き合いを続けさせて頂く予定でいる。やっぱり,脂の乗っている作家の活動は,見ていて飽きないもんねぇ。
本書はその片方の教祖様のご執筆された,ゴーマニズム宣言スペシャルの最新刊である。タイトル通り,米軍基地に多くの土地が占領されたままの沖縄について描いたもので,SAPIO紙の連載分(1章~17章)に書き下ろし(18, 19, 最終章)を加えて400ページを越える分厚い単行本になっている。反米愛国自主独立を熱く語る論調は相変わらずで,長年付き合っている読者としては繰り返しが過ぎて少々退屈に思える記述も多いが,沖縄取材のエピソードは結構笑える内容が織り込まれているし,書き下ろし分の,特に瀬長亀次郎についての伝記は感動的ですらある。
エンターテナー小林よしりん,未だ健在,どころかますます盛ん,なのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06246-7, \700
うーむ,他ならぬ小谷野先生の新刊であるから何を置いても買うのであるが,しかし,それにしても,この帯の文句は,書店の平積みの中でも目立つ。
いや,そんな,開き直られても・・・お気持ちは,同じく(いや,もっと,だな)もてない男であるワシには良く分かりますが,いちおう,世間体って奴も考えて,ねぇ・・・。と言いたくなってしまうぐらい絶好調の小谷野先生。×イチ経験は執筆活動の一助となったのかと,オスの負け犬としては舌打ちしたくなる程である。 前著を知らない,読んでいない人でも,「賢くない」「懲りない」人種である方にとっては身につまされつつも共感できところの多い本書は,結論において到達した一種の「悟り」によって感動的な作品になっているのだ。
世のもてない男どもよ,小谷野敦を手本とし,未だに負け犬のアガワサワコに振られ続けよ!
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-12-204528-2, \552
最近は教育者として熱心に学生さんを指導しているためか,読み応えのある長さの作品をめったに描かなくなってしまったK子たんであるが,幸い,旧作が次々と文庫化されている。本書もその一つで,ブライトシリーズだけでは飽き足らないワシのようなファンにとってはありがたい。
ワシは所謂24年組の熱心な読者ではない。少女マンガの入り口は70年代後半~80年代前半の「りぼん」だったので,最初の洗礼は乙女チック路線であり,有閑倶楽部開始前の一条ゆかりですら,ワシにとってはちょっと古めかしく感じられたのである。そんな人間であるから,いくら世評が高くても,絵柄が今風(当時の)ではないマンガを読む筈もなく,大島弓子は「サバタイム」で,K子たんは「紅にほふ」で,共に1990年代に入ってようやく初邂逅を遂げたのであった。
そんな遅まきながらのK子たんファンなので,「天馬の血族」以降の絵が一番好みである。ちょっと古めかしいが,それが土俗的な凄みを感じさせ,現実から遊離しない雰囲気を醸し出すのに成功しており,「吾妻鏡」や本書のような歴史物を描くには最適である。
それにしても,この物語の主題である主従関係の,なんとまぁ退廃的なことか。解説の村上知彦さんは「絵から発するオーラ」を感じたそうだが,ストーリーからもただならぬものを感じる。主人である廣信を抱く左中太は,性欲・愛欲に加えて,幼い頃に別れた母親の面影も主人に重ねている。人間の欲望を三つ巴にしているのだから,ものすごく重苦しい物語なのに,目が離せず一気読みしてしまった。
お気楽なボーイズラブに飽き足らない向きにはお勧めである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7580-5145-3, \552
それは3本目の短編「海の花」である。
こんなストーリーである。
主人公は,地方都市に住む女性で,あまり売れていないモデルとして生計を立てている。現在進行形で付き合っている男性がいて,物語は彼からプロポーズされるところから始まっている。が,同時に主人公の悩みも始まってしまうのである。「仕事を取るか,結婚を取るか」。
こういう説明をすると,ごくありふれたストーリーとも言えるのだが,問題はこの主人公の「悩み方」にある。
実は彼女には双子の妹がいるのである。その妹は,主人公よりモデルとしては素質があり,将来を嘱望される存在であったのだが,普通のサラリーマンと結婚してさっさと引退してしまい,今は二人の子持ちのお母さんとして幸せに過ごしている。二人は今も昔も仲が良く,夜中に携帯で語り合ったりしている。が,主人公にとっては,この妹の存在が引っかかっているのだ。
モデルとしては二流いや三流どころの存在である自分。でも仕事は楽しく,引退はしたくない。彼と一緒にいたい気持ちは強く,結婚はしたい。
片や,自分より素質がありながらも,結婚してすっぱり引退してしまった妹。モデル業への未練など全く持っておらず,家庭の切り盛りに幸せを感じている。
さて,自分はどうすべきか・・・身近に気になる比較対象物がある主人公の悩みが伝わってくるモノローグをいくつか引用してみる。
「でもあたしは自分がどの程度か知っている」
「自分の実力も知らずに夢見ていられるころはすぎちゃった」
「どっちかな・・・どっちだろう 香織(妹)は幸せみたいだけど」
「(仕事だって)いっそ全然ダメならきっぱりやめられるのにな・・・」
「ハンパな才能なんてないほうがいい」
淡々とした日常の風景描写の中に,ポツポツとこのような悩み節が刻み込まれてくると,かえって「ハンパな才能」で日々悶々としているワシに突き刺さってくるのである。いや,もちろん自分なりに生きていくための結論は出てはいるのだが,改めて,フィクションとはいえ日頃意識の片隅にあるヒリヒリ部を刺激されると,もうどうにも気になってしまうのである。
夢路行,恐るべし。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7775-1134-0, \1900
3DCGド素人のワシが,本年度からOpenGLを使った実験を始めるにあたって,資料を渉猟した結果,どうやらこのWebページが高評価を得ていることが分かった。読んでみると,なーるほど,Global変数を必要最小限度にとどめ,codingスタイルもキレイ,説明も簡潔でわかりやすく,最後の演習課題は歯ごたえがあってナイスである。
で,実験が始まってからも時折眺めていたのだが,今回それがオマケも加えて一冊にまとまったのである。これを買わずにおらりようか。ああ,ワシみたいなオヤジには,やっぱり本が一番読みいいわい,と実感することとなったのである。いい機会である,ひそかに床井先生のページで勉強してた輩は,是非ともご恩返しのつもりで本書を買いなさい。
ふーん,GLUTにゲームモード切替関数なんてのがあったのか(付録C)。今回はじめて知りました。やっぱどこの世界も,奥が深いんだなぁ,勉強することは多いや。早速,次年度の実験で使わせて頂くことにしようっと。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-87233-936-3, \880
近年活躍目覚しい女性漫画家,よしながふみによる東京グルメガイド付き,ショートマンガ集である。主人公は作者本人と思しき人物だが,果たしてこれがフィクションなのかエッセイなのかは皆さんの想像にお任せしたい。ともあれ,この主人公の食に対する執念はただ事ならず,故に紹介される和・洋・中華レストランには一度食いに行ってみたくなるずずず・・・あ,よだれが。
・・・というのが,某新聞社に投稿した紹介文なのだが,もう一言,付け足しておきたい。
年齢を重ねたためであろう,よしながふみの描く恋愛はますます多様になっており,本書でもそのバリエーションを一つ増やしている。それは友情とも師弟愛とも区別のつかない一定の距離を保った一見冷ややかな恋愛(?)である。これはよしながらしき主人公とその後輩アシスタントの間にあるものだが,それがある故に本書は単なるショートエッセイの寄せ集めではない,一つのゆるいストーリーを紡いでいるのである。
果たしてこれが実際にあったことなのかどーなのか,そんなことはどーでもよろしい。はっきりしているのは,色気のない恋愛を扱っていながら,うまい食い物にセックスやヌードの代わりをさせている,きわめてエロくて健全で面白いマンガだ,ということなのである。
とりあえず,うなぎ好きのワシとしては「安斎」に行ってみたい・・・。
[BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-725616-9, \619
まあ大体,「団塊の世代」以上の方々の言うことをいちいち真に受けて聞いていては身が持たないのである。こんだけ財政赤字を抱えつつ,今までどおりの年金支給額を維持することは無理。支給額を抑えつつ,年金受給者からも幾分かの負担をお願いするため消費税率のupをするか,どっかの補助金をカットするか,政府の機能を小さくして支出を減らすか,いずれは決断することになろう。どれから手をつけるかは政治的な力学に左右されるだろうが,「どれもこれも一切ダメだ!」という主張をまともに聞く必要がないことだけは断言できる。勝手に言わせておけばよろしいのである。「我々の既得権益を守れ!」という主張には「ワシらの権益はどーでもええっちゅーんかいっ!」という反論で十分だからである。
故に,この方々のこーゆー主張は気楽に聞けるのである。聞き流せばいい話だからである。それを一切除いた後に,ためにする部分が残るのであればそこだけを記憶しておけばよい。最近のなだいなだや小林信彦の著作にはこの手の聞き流せばよい嘆き節が多くなってきて少々うんざりしている。が,それでも読み続けているのは,まだ「ためにする部分」があると思われるからである。
本書は連載コラム「人生は五十一から」をまとめたもので,4冊目にあたる。ワシは文庫化されたこのシリーズは全部読んでいるが,一番の売りは著者が体験してきたエンターテインメントの歴史についての記述であろう。それも長く続けているためであろうが,「繰言」めいてくるとちょっとくどい感じがする。著者のお年を考えるとやむを得ないのであるが,愛読者としては著者の「老い」が感じられ,少し悲しい。解説の芝山幹郎に言わせるとこの点は優れたワインの「高原状態」を示す指標となるのであろうが・・・うーん。
それでも,帰りの新幹線車中で一気読みしてしまったのは,やっぱり基本的には一定水準をクリアした「おいしいワイン」である証拠なのであろう。老いたとはいえ,著者の筆力はまだまだ健在,ということである。その点だけは保証する。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-582-85263-7, \720
以前,高校の教員集会とやらに引っ張り出されたことがある。学生(高校生の場合は「生徒」と呼ぶのが普通らしい)による授業評価について,高校よりも先行して実施している大学としてコメントして欲しい,ということのように記憶している。
現在の小中高校教育の現場は良く知らないが,全ての授業,あるいは全ての教員が行った授業のどれか一つを対象として,受講学生にアンケートを取っるようなことはしていないのが普通だろう。しかし,大学の場合,特に私立大学は,少子化の進展によって学生数を確保することが難しくなることもあって,授業評価に積極的に取り組んでいるところが多い。今では国公立大学でも,講義終了時にアンケートを取るのが普通である。
その集会では事前に出席者へ質問項目を聞き取っていたようで,当日その場で「これについて答えて下さい」と質問をまとめた書類を渡された。その中に「アンケートを取って学生におもねる姿勢を取るのはいかがなものか」というものがあり,当時はまだ気弱な三十路ニューカマーだったワシは,「おもねるというのはどういう意味か分からない」と戸惑いつつ,「まあ確かにひどい言葉を投げつける学生も居ますが,それは適切に無視できるようになってきてますよ」と答えたのであった。
返す返すも残念である。
考えても見よ,学生はサービスを受け取りたくて安くない学費を支払い,それを糧として我々センセーどもは日々の生活を送っているのである。こちらの力量に差があるのは仕方がないが,それなりに良い「サービス」を講義を通じて返すのは当たり前のことではないか? それを「おもねる」とは何事であるか! てめぇらこそ力もないくせに自分のプライドだけ擁護したがっているアマちゃんなのであって,アンケートにあれこれ書かれるのが怖いなら,実のある講義をしてみろよっ!
・・・と,今ならこーゆー文意を真綿にくるみつつ,でも所々に棘は突き出ている,というような答え方も出来たであろう。残念である。
うーむ,のっけから熱くなってしまったが,しかし,日本のセンセー方は概して「打たれ弱い」存在である。いーじゃねーかよ,メガネが変とか,ヒゲ剃ってこいとか,ブサイクとか馬鹿とか死ねとか書かれたってよ。こっちはいい年した大人だぜ? 勝手に言ってろよ,こちとらこれで金とって生活している立派な社会人,親の脛かじって自分の至らなさとまともに向き合えないボンボンと一緒にするんじゃねーよ,ぐらいのオヤジ的開き直りでどっしり構えていただきたいものである。
そーゆー授業アンケートの自由記述欄に書かれた極端なご意見は,ワシがコメントしたとおり,「適切に無視」すればいいのであって,問題はその他の,統計的指標がはじき出される所にある。講義内容の難易度,板書の使い方,配布資料の量と内容,受講生への講義参加促進努力の有無・・・,と「良くて当たり前」と思われそうな項目は数値で答えることになっているから,全体の評価値が一目瞭然となる。ワシら教員にはその結果が全体の平均値に比較して高いか低いかも分かるようになって返ってくる。ワシの場合は,全体として中の下,というところで,ちょっと手を抜いた講義を続けると下がり,頑張ると上がる,という,まあ「いいところもあるが悪いところはそれを若干上回る」平均的な教師なのではないかと自己評価しているのである(甘い?)。いや,こーゆー評価はワシにとってはありがたいものである。変に自己肥大して「ワシの話が分からんのは受講生が悪い」となることもなく,頑張れば平均レベルにはなる,という自意識をアンケートなしで得られたかどうか,甚だ疑わしい。
という訳で,本書は天下の東京大学で実施された授業評価の結果を分かりやすくまとめたものである。生命科学を専門とする著者が書いたものであるが,本書には専門に関する記述は殆どない。東大教員の仕事の内容や教育システムの解説,著者自身の論文成果の経年変化,等々,大学内部の仕組みに疎い人が読んでも誰にでも分かるようになっている。そして授業評価の結果も「まあ,そんなもんだわな」と納得させられるものであって,ワシが知る限り,まともに教育を行っている大学ならば,似たような統計結果が出ているのであった。その結果を知りたければ,本書を買って読んで下さいませよ。
さて,大学のセンセー方の評価については大体出揃った昨今,著者もちょろっと述べているが,次の課題は「受講結果の精査」である。多少学生さん達からの評価は悪くとも,脱落者が増えない程度のものであれば,学生さんの「不満」よりは「得たもの」が多い方がいいに決まっている。大体,教師に対する評価なんて,社会人になって数年すればガラッと変わってしまうものである。それよりは成果,そう,「評価よりは成果」を重視するような授業評価が行われれば,打たれ弱いセンセー方もその真価が分かってくるのではないかしらん?
第一部 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-08-747749-5, \838
第二部 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-08-747759-2, \838
第三部 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-08-747772-X, \838
古典を読め,とはよく言われることであり,実際読むべきである,とは思う。古典とは,その後それを追う著作がいっぱい出て,「何でこんなに言及されるのか?」と不思議に感じたときに紐解かれる,いわば著作の源泉なのである。そーゆー代物は読みたいとは思うが,例えば「たけくらべ」を読もうとしても,文語調に慣れていないヘタレな現代一般人の多くは読了できないだろう。短いこの作品にしてからこの体たらくであるから,源氏物語なぞは,まあ無理である。せいぜい,瀬戸内寂聴や円地文子の現代語訳を通じてオリジナルの息吹を感じる程度が関の山である。
更に問題なのは,文語もさることながら,その古典が執筆された際の時代背景についての知識が必要になることである。実は,ワシは名前を出していながら白状するが,源氏物語は現代語訳や大和和紀「あさきゆめみし」すら読んだことはない。もちろん,学校教育でちらりとその抜粋を見かけたことはあるが,光源氏なる人物がいかような女遍歴を辿ったのか,ということはさっぱり分からなかった。おぼろげながらも筋を知ったのは,川原泉「笑うミカエル」を読んでからである。おかげでワシの光源氏像はエラく偏ったものとなってしまっている。
とまぁ,読みたくても読めないのが,ワシにとっての古典である。どーせオリジナルを読めないならさ,いっそマンガでもダイジェストでも小説でもいーじゃん,と安易な開き直り状態に陥ってしまっているのである。
というわけで,「ミシェル 城館の人」である。ミシェル,とはMichael de Montaigne,つまり「随想録」を著したモンテーニュのことである。皮肉もあり,鋭い文明批評あり,何より相対主義的な思想書と褒めちぎられることの多いこの古典は,しかし白水社の全訳は2186ページ・・・もうそれを聞いただけで読む気が失せる分厚さである。せいぜい同じ出版社から出ている新選本の方を読むのが精一杯である。しかしそれとても,それが執筆された時代背景を知っているのと知らないのとでは,やっぱり読み方が変わってくるのではないだろうか。現代にも通じる,かなり普遍的な「エセー」であるとは言え,それが16世紀の宗教改革の嵐が吹き荒れていた頃に,政治的に重要な役割を果たしながら,一人城館に篭ってこれを書いていた,ということが分かってくると,より一層,古典としての凄みが理解できそうではないか。しかも,ミシェルさんは,領主としてあまりよい働きをしたとは言えず,父親には溺愛されてラテン語の早期教育まで受けさせられたが,母親とはあまりうまくいかず,しかも妻は寝取られる,というプライベートまで明かされてしまうと,だからこそこれが書けたのかな・・・と変な納得をしてしまう。そーゆー,ミシェルさんに関する様々な政治的・家庭的な事柄も,「エセー」からの豊富な(ちょっと重複は多くてくどい感じはあるけど)引用も含めて時系列的に述べられている本書は,言葉は悪いが「馬鹿でも読める随想録」と言える。ワシはこの3部作を読了して,すっかりモンテーニュが,随想録が分かった気になってしまった。
しかし,本書は小説としての筋の通し方も見事である。最終的にモンテーニュが到達したもの,それに向かって収斂していくまでの流れが,歴史的ドラマの要素も加わって,結構ドキドキできたのである。相手に合わせるだけの相対主義は思想とは呼べない・・・モンテーニュがたどり着いたのはそんなものではなく,自分の内面を徹底的に見つめることで築くことの出来た「思想」であると,堀田は言う。果たしてワシみたいな文学的素養のない人間にそれが正しく理解できているかどうかは怪しいが,どーも,小林よしりん的な「絶対主義」よりは,ずっと相対的な「構造主義」の方が肌に合うよな,と感じつつあるワシとしては,ミシェルさんに近しい感情を勝手に覚えてしまっているのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-309-72846-4, \1200
サラブレッド,という言い方があるそうだ。何のことかというと,いわゆるエリート純血主義のことである。出身地,出身校,両親・親類等が優れている人物のうち,特に才能に秀でている者を引き立ててエリートとして育てあげる,というシステムをそう呼ぶのだそうである。取り立てて才能もなく,出身大学も並以下,人並みはずれて努力家というわけでもないワシは,最初そのシステムを聞いてムカついたものである。大体,サラブレッドだらけの世の中って面白くなさそうである。ワシみたいな馬鹿もいた方が,何かと賑やかで,トラブルは多いけど,それ故に思わぬ見返りもありそうじゃないか。
しかし,サラブレッド・システムでなければ生まれ得ない人物,というのも確かにおり,馬鹿を生かすなら,飛び切りのエリートもいないと釣り合いが取れない,とも言える。まあ,最終的にはバランスの問題になるのだけれど,とびっきりのエリートってのは,やっぱり必要だな,と,同世代のそーゆー人物と言葉を交わす機会が多くなってくると,そう思うのである。
サラブレッドなら,自力で這い上がってくるんじゃないかって? いや,それじゃまずいのである。千尋の谷から這い上がって来た時点で,サラブレッドは獅子になっているのである。馬はやっぱり平和な牧場で,飼い葉に困ることなく,それでいて「走る」ための鍛錬だけは怠らずに続ける,そうやって育てなくてはならない。余計な岩登りなんぞさせてはいけない。ま,ワシみたいな馬鹿は,「馬鹿力」がないと世の中渡っていけないので,大いにロッククライミングに励む必要があるのだが,ね。
で,西島大介である。後見人は・・・いっぱいいそうだけど,やっぱり大塚英志の力が大きいのかな。独り立ちして書いた作品は既に2作。「凹村戦争」と,この作品である。「へえー,新人でもう書き下ろし2作目?早川と河出から,ねぇ」などと嫌味を言ってはいけない。彼はエリートなのである。サラブレッドなのである。その資格を十分備えた作家(漫画家,と言われた方が嬉しいのかな?)なのである。大事に育てようではないか。冗談抜きで,ワシは宮崎駿亡き後は西島大介が日本のカルチャーを引っ張っていくのではないかと,期待しているのである。
とにかくセンスがいいのだ。一見かわいい3頭身のキャラクター達が,鮮血を噴出しながらバラバラになったり,SEXしたり(本作ではベロチュー止まりだが),泣いたり笑ったり絶望したりと,白い画面を有効に使って柔軟に動き回り,ストーリーを作っていく。読み終わってみると,実は二作とも馬鹿マンガ(by BSマンガ夜話)だと結論付けられるのだが,それ故に読了後の爽快感はなかなか心地よい。久々にヤラれたという気分を味わって,ワシは大変に嬉しいのである。
現在連載中の「ディエンビエンフー」はタイトルから分かる通りベトナム戦争が舞台の作品だが,これも含めて3作全て,舞台が破壊されつくした,あるいは破壊されつつある世界である。まあ小難しい評論だと色々理屈がつくのだろうけど,単なる中年の一おっさんとしては,バブル後の失われた十年世代の感覚なのかな,という気はする。そして,絶望の底にいる以上は這い上がるしかない,というストーリーも,そこに由来するのだろう。
何だこいつ,デザインセンスはあるし,動きはうまいし,デビュー後の活躍の舞台もちょっとマイナーだが注目されやすい所だし,すくすくとエリート街道まっしぐらの癖に,みょーにワシら馬鹿の琴線に触れる作品を描くじゃねーか。あっ,そこが「才能」なのかっ! こいつぁ,やっぱりサラブレッドなんだなぁ。
とゆー訳で,しばらくは西島大介の走りっぷりに注目,なのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-12-204492-8, \838
いやぁ,濃い内容の本である。が・・・ちょっと高くないか,中央公論新社さんよ・・・高々280ページの文庫本にしてこの値段である。「武田徹」というネームバリューに対する対価なのか,それとも売れ行きがあまり期待できないからなのか。多品種少量生産しなければならない出版社としては,台所事情も苦しいのだろうが,それは読者も一緒である。ご一考願いたい。
値段はともかく,本書は大変エキサイティングな内容となっている。つい先日,ようやっと法律的には解決したハンセン病患者の強制隔離問題を媒介として,全ての伝染病の罹患者に対する「隔離」の是非とその有様を検討する,という重厚な評論が展開される。しかしこれはアームチェア・ディテクティブ的な机上のものではなく,綿密な取材と資料探索に基づいて行われたジャーナリストの仕事なのだ。
ハンセン病問題を丹念に追っていくことでどのような論理が展開されるのかは,本書を丹念に読んで(著者に言わせると取材に費やした年数はかけて欲しいそうだが,そりゃ無理だ(笑))確認して頂くとして,一つだけ強調しておくとすれば,著者が問うているのは伝染病患者を隔離することの善悪ではなく,社会が「排除のメカニズム」を発揮しない隔離はどのようなものなのか,ということである。感傷的,あるいはイデオロギー的な信念とは別の位相で冷徹に「理想的な隔離」を追求しているのである。
香山リカの解説も含めて本書を読了して感じたのは,21世紀の現在においては,いわゆる「専門家」に対する疑いの目が「排除のメカニズム」に組み込まれており,それについての言及を武田も香山もしてないなあ,ということである。ハンセン病患者の強制隔離が積極的に行われた戦前ならばいざ知らず,薬害エイズ問題やオウム事件を経験してきた日本社会は,科学的言説を「権力」として振り回す専門家に対して距離を置いた見方が出来るようになっている。センセーの言うことはなんでも鵜呑みにしてしまうよりは良いこともあるが,いくら科学的に正しいことを主張しても簡単には受け入れてくれない,という状況は怖いところもある。個人的にはその点についても答えて欲しかったところである。
何はともあれ,力作であることは変わりないので,新刊で購入するには価格的にちょっとためらわれる向きには,是非ともしばらく待った後にBook offを探索されては如何であろうか。
[ Amazon ] ISBN 4-87257-533-4, \1140
本書の刊行に対して「吾妻ひでおが帰ってきた!」と表現するのは軽率のそしりを免れない。吾妻ファンを公言する人が浮かれてそう言っているのと聞くと,ホントにちゃんと読んだのか?,そもそもアンタはホントにファンなのか?,と疑わしく感じてしまう。
吾妻ひでおは,3度失踪し,3度とも帰還した。最初の2回は失踪してホームレスとなり,肉体労働にも従事した。3度目はアルコールに逃避して連続飲酒状態となり,親父狩りに遭った後,家族に抑え込まれて病院にぶち込まれた。その3度の失踪の間,吾妻ひでおはそれなりに作品を発表しているのである。単行本も発行しているのである。本書にはそのこともちゃんと描かれているのだから,それをホントに踏まえた上で「帰ってきた」と言っているのかよ,と思ってしまうのである。
本書の内容が内容だけに,反響も大きいようだが,巻末で対談しているとり・みきは二つの意味で心中複雑だろう。
一つは巻末対談での発言にあるように,「パンツの中まで見せて,ドロドロした部分もさらけ出したほうが凄いと言われがちじゃないですか。(中略)僕はそれ,絶対に違うと思うんです。それを一旦ギャグにして出すという,その辛さ,芸として見せることのほうがいかに大変なことか」という点が読者に理解されているかどうか,ということ。
もう一つは,かつてのブライアン・ウィルソンが作品作りのプレッシャーからドラッグに嵌って再起不能とまで言われる状態になった,ということが知られてから
真のロック野郎と称えられるようになった,そのことに対するとり・みきの違和感が,本書の刊行によってもう一度惹起されるのではないか,ということである。失踪したことによって,「吾妻ひでおは真のギャグ漫画家である」などという輩が出かねない,いやもう出現していそうな状況は,「職人芸」こそ称えるべきであると思っているとり・みきにとってはかなり嫌なのではないだろうか。
しかし,無責任な第三者であるワシは,もっと酷いことを考えている。仏の顔は3度までは撫でてもいいらしいが,正直,3度も失踪を繰り返したとなると,4度目もあるだろうと考えてしまうのである。そして,申し訳ないが,無責任かつ無慈悲な第三者であるワシは,口には出さねど(書いているけど),その4度目を期待してしまっているのである。Comic 新現実で始まった「うつうつひでお日記」をドキドキしながら読んでいるのである。「いつ落ちるか?」と。
デジャヴ。
これと同じドキドキ感を,つい最近まで中島らもに対して抱いていた自分を思い出した。アル中になり,ウツ病になり,ヤク中になって大阪拘置所にぶち込まれ,最後は酔っ払って階段から落っこちて死んでしまったあの作家の,作品よりは行動に対して期待してしまっている,無責任な読者である自分。世間の多数も,ひょっとしてワシと同じ穴の狢なのだろうか? そして,吾妻ひでおに対しても,とり・みきの願いとは全く逆の期待をしているのだろうか? ・・・などと疑問文で書いてしまうあたりが偽善者の偽善者たる所以である。吾妻本人がこれを読まないことを願っているが,もし読んでしまったらすぐに忘れて頂きたい。別段,読者の期待に答えて頂く必要はないのです。でも,でも,ね・・・。
さて,本書を読了した貴方にもう一度,問いたい。
「吾妻ひでおは帰ってきましたか?」
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-42067-3, \780
The InternetがWeb(World Wide Web)の登場によって爆発的に使用され拡大していったのは1990年代の,特にWindows95の登場以降である。その証拠にボチボチ開設10周年を誇るサイトが登場し出している。まだ10年かぁ,と思うと同時に,もう10年かぁとも思う。何せコピペ自在の儚いデジタル,移り変わりの激しいこのITの世界であるから,高々10年というよりは,10年間もよくもまぁWebと付き合ってきたなぁという感慨の方が強いのである。
今から思えば青臭かったと苦笑するしかないが,The Internet勃興期には,ありとあらゆるものがon-line化され,全ての商品は通販を通じて購入可能となり,OSなくともブラウザさえ動作する端末があれば事足り,既存メディアは淘汰されてThe Internetに集約され,一個人でも大企業でもWebページの上では平等・・・なんていう論調があっちこっちに見られたものである。何なら古本屋の均一棚を見てみるがいい。もうこっぱずかしい内容の「The Internetはパラダイス!」的な本が一杯並んでいるから。そーゆー時代を経ても,なおThe Internetのトラフィック上位に食い込んでいるWebは,ワシを含む様々な「The Internetをやらねば人にあらず」的な熱狂人作り出すだけのことはあったと,青臭さが抜けた今だからこそ断言できる訳である。
で,そーゆー時代もそろそろ終わりかけてきた1999年9月,恐怖の大王の代わり(?)に,一人の変な本好きライターがオンライン古本屋「杉並北尾堂」を立ち上げたのである。
オンライン古本屋,というとワシはふるほん文庫さんを思い出してしまうが,こちらは大量に文庫を集めてNPO法人まで作ったはいいものの,どーも経営的にはイマイチである。派手に株主を募集したはいいが,初年度を除いて配当金もロクに払えぬありさまで,最近ようやく紀伊国屋書店と提携を果たして何とか生き残りを計っている。
それに対し,本書の著者が経営する杉並北尾堂は,月々数万円というオーダながらも,副業としてはまあまあの利益レベルを維持し続けており,日本経済が右肩下がりになろうかという状況では,かなり堅実な商いを続けているのである。
とはいえ,個人経営(奥さんはいらっしゃるが,積極的に手伝っている訳ではないようだ)ならではの苦労はあって,仕入れだのセドリだの会合だのと時間は確実に取られてしまい,それがこのレベルの利益に見合っているかどうかという点は正直厳しいところだろう。しかし,大事なのは著者本人がこの忙しさを楽しめているかどうか,ということである。忙しいながらも達成感があり,その上で次の投資に繋がる稼ぎがあるのだから,著者・北尾トロは幸せな男なのである。
古本販売の方は一時停止していたが,今はメールマガジンを通じてのみではあるが,再開したようである。本業であるライター稼業に勤しんだ方が実入りもいいはずであるが,古本屋のおやじも捨てがたい魅力がある,ということなんであろう。腹は出るし腰も痛いし成人病が気に掛かる年になり,「幸せな人生とはなんだろう?」という命題を真面目に考えるようになったワシとしては,本好き人間の「幸せ人生サンプル」の一つが本書に提示されていることを発見して,喜んでいる次第である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-06-300279-9, \467
いつ終わるか分からない,ひょっとして作者が死ぬまで続くかと思われる大長編マンガには法則がある。
まず,「マンネリ」でなければならない。といっても読者を飽きさせない程度のエンターテイメント性は最低限必要である。水戸黄門に由美かおるの色気(ワシにはさっぱり分からないのだが)があるようなものか。さらに,見せ場が必ずあり,この見せ場に至るまでの道筋が「マンネリ化」することが欠かせない。水戸黄門ならば印籠・・・といった手垢がついた分析は,どこかで見たことがあろうし,誰もが知っていることであろう。しかし,この分析には欠けている点がある。著者のモチベーションが維持され,適度なテンションが作品に満ちていること,これは「マンネリ」とか「見せ場」という要素以上に必要なことである。そして,これが常人には容易に真似の出来ないことなのである。
大体,Web日記やblogだって,一年以上続いたものがどれほどあるか,尻切れトンボに終わったものを挙げれば,もうキリがない程である。続かない理由は色々あろうが,要はテンションが続かなかったということに尽きる。個人のWebページの寿命が大体三年と言われているのに対し,会社等の組織のWebページが長続き(更新されないのも多いけどさ)しているのは,書いている人間が複数いたり人事異動があったり,つまりは複数人が携わっているという要素が大きいのだろう。個人が一つのことをやり続けるのは,当人がどう思っていようと,それは大変なことなのである。
という訳で,クッキングパパである。あの競争熾烈な青年週刊誌モーニングにあって79巻を達成した偉大な大河マンガである。間違ってもグルメマンガなどと言ってはいけない。大体「グルメ」なんぞは「大切な食べ物にうるさく文句たれる人」(by 川原泉)であり,スノビッシュな陰険野郎にこそ相応しい言葉である。その意味では「孤独のグルメ」はいい意味で陰険野郎を見事に描いた傑作である。しかし,クッキングパパは料理することを幸いとする人々を描いた作品であって,出されたものに「うるさく文句たれる人」は殆ど登場しない「白マンガ」(by BSマンガ夜話)である。
ワシはマンガのコレクターではないので,クッキングパパを全巻集めたりはしない。登場人物が不老不死になる数多の大長編マンガの中にあって,このマンガの登場人物たちはみなちゃんと年を取っていく稀有な作品であるため,主人公が家長である荒岩家の様子が気になって時々覗いてみたくなるのである。で,久々に拝見させて頂くと,ああ,あの小さかった娘さんは元気に野山を駆け回っているわ,小学生だった息子さんはもう高校生だわ,夫妻は厄年を越えようかという年齢になっているわで,全く月日の過ぎるのは早いものである,と感慨に耽ってしまった。・・・マンガでだよ?。マジにこれって数十年後にはサザエさん並の貴重な文化財として扱われるのではないか。
今回特に感じたのは,善き小市民としての日常を描く,白マンガ性である。それが一番よく分かるのがCOOK.774「串カツが食べたい!!」である。道路交通法が改正されて飲酒運転に対する罰則が厳しくなったため,いつもは串カツを肴に晩酌をしてから一休みし,酒を抜いて帰宅していたおじさんが,それを控えるようになった・・・という話である。どういうオチが付いたかは単行本を読んで頂くとして,誠に清く正しい解決策が示されることになる。これをどう見るかは人によって異なるだろうが,組織の勤め人で扶養家族もいる大多数の中年日本人なら,「正しすぎるよなぁ」と頭の片隅で思いつつ,これを肯定する,いや,こうするべきであると言わざるを得ないであろう。異論はあろうが,今の日本は,正直に法律に則って生きた方が,小市民的生き方がしやすいようになっているのだから。
小市民的生き方における幸福感を「おいしー」という一言と表情にして「マンネリ」的「見せ場」にしているこの作品は,誠に清く正しい白マンガである。大人になって丸くなった,いや,丸くならざるを得なくなった人には,善き小市民のバイブルとして,是非お勧めする次第である。
[ bk1 | Amazon ] ISBN 4-480-68702-5, \760
ただでさえ過熱気味の新書戦争を更に混迷に陥れるべく刊行が開始された「ちくまプリマ―新書」の,記念すべき第一弾の中の一冊がこれである。ターゲットはどうやら中・高校生であるらしい。確かに本書を見る限り,ページはスカスカに行間が空いているし,オジサンにとってはうざいほど漢字にルビが振ってあるし,文章も改行が多く,大変分かりやすく記述されている(これは内田先生だからなのかもしれないけど)。誠に「正しい中高生向け」新書であると言える。それ故に,本書がターゲットとなる若い彼らに読まれることは,まあまずないであろう。
大体自分がその頃にそーゆー清く正しいジュブナイル本を読んでいたか,思い出して見るがよい。ワシの場合は,活字ばっかりの本を読むようになったのは中学1, 2年の時に父親から「ええ加減に字の本を読め」と言われて江戸川乱歩の猟奇物を薦められてからである(こんなものを薦める方も薦める方だが)が,読書の大部分は漫画で,たまにSF,当時の御三家である筒井康隆・小松左京・星新一に眉村卓や高千穂遙を読むぐらいであった。高校生になってからは生意気にも寺田寅彦随筆集なんぞに手を出して,「将来,学者になったらこういう落ち付いた文人になりたいものだ」と出来もしないことを夢想していたりしたのである。決して岩波少年少女文学全集やポプラ社の偉人伝なんかを面白く眺めたりはしなかった。むしろ精一杯背伸びをしようと,かなり無茶をして大して理解出来そうもない歴史書を読んだり,逆に高ぶる性欲を満たすべくそーゆーイケナイ方面のものに手を出したりしていたのである。そんなもんじゃないですか,若い頃は。従って,この新書の真のターゲットはもっと上の世代であって,あれこれ経験して痛い目にあった挙句に「ちょっとは初心に返ってみようか」と思い始めるあたりの人間が読むべきものとして企画されたに違いないと,下種の勘繰りをしているのである。
大体,ワシらは教師が薦めるものをおとなしく読むような世代ではないのである。ちょうど「荒れる中学校」の時代にあって,実際に隣の組の担任教諭が校内暴力を受けたりしていたのを見たとあっては,「先生」は「センセー」あるいは「センコー」と呼ばれるべき無機物でしかなく,世間的な「タテマエ」としてそこに存在していないと面倒なことになるだけの存在であった。そんな世代であるから,一応教師となった現在でも,自分が奉られるエライ存在であるとは全く思えない。今ではどの大学でも受講学生にアンケートを取るのが一般的となったが,導入当時は随分と抵抗があったらしい。確かに厳しく怒鳴ったり指導したりすればアンケートには無茶苦茶に悪口を書かれるが,それに対して個人として「このバカッタレが」とは思うのは仕方がないとして,「そういう評価をされること自体が教師の評価を下げる」とか威厳がどーの指導力がこーのという議論が教師側から出たのを聞くと呆れ返ってしまう。自分の思いや教育的配慮がどうあれ,それを受け取るのは学生であって,アンケートの集計結果が示すものは紛れもなく,学生の反応そのものである。自分が教室で語り動き怒鳴り書いたことに対しての責任ぐらい引き受けたらどうですか,センセー方,いや,センコーどもよ,とワシは思っているのである(下っ端なので公の場では言わないけどさ)。
「センコー」が「先生」に格上げされ,その上に「えらい」という形容詞が付くようになるには,学生さん達に「先生はえらい」と思ってもらうしかなく,それは教師の方があれこれ行う努力の成果だけでは決して得られない・・・ということは,すいません,ワシも教師になって10年経ちますが,ようやく分かってまいりました。従って,本書はワシにとっては少々「くどい」内容であり,まあウチダ節ファンとしては楽しめたが,新しい知見が得られたかどうかははなはだ怪しい。
逆に,ワシみたいなボンクラ教師が10年経た経験を持って,「本書は正しいことを言っている」ということは保証できるのである。だから,うーん,やっぱり中高生には納得してもらうのは難しいんじゃないのかなぁ,この内容。やっぱり,筑摩書房の真のターゲットはもっと上の若手社会人あたりなんじゃないかと,思えて仕方がないのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06190-8, \700
本書は二つの意味で失敗作である。長年,数学力低下を憂い,率先してその危険性を訴えてきたグループの強力な一員が書いた本であるだけに,そしてその内容の多くに首肯できるだけに,誠に残念である。筑摩書房はどうしてこのような本を出版してしまったのだろうか,もしかして,本書で批判されている,同じちくま新書から一足先に本を出している市川伸一の援護射撃になることを見越した上で,編集者はこの本を出したのではないか・・・そんな下種の勘繰りをしたくなるぐらいの失敗作である。
まず,本書はタイトルで失敗している。本書の大部分は「ゆとり教育批判」であり,もちろんその結果として「(これから成人となる日本人の)数学力」をつけることになる訳なので,読了した後にはタイトルの深遠さが理解できるのであるが,営業的には如何なものか。ワシが本書を買ったのは,著者名ではなくタイトルに惹かれたからである。それは,ハウツーものとしての「数学力のつけ方」を伝授する本だと思っていたからである。日々教育に悩む同業人として何か参考になるところがあるかな・・・と軽く考えて買ってしまったのである。装丁で分かるような単行本ならともかく,装丁はちくま新書全体で統一されたものであり,腰巻に「日本の学力を立てなおす!」と書いてあったって,それはいつもの営業的壮語だな,と一顧だにしない訳で,こんなに壮大な数学教育論ならもっとふさわしいタイトルを付けるべきであった。この点,分かりやすい単刀直入なタイトルである「学力低下論争」に負けている。
そしてこれが肝心なところだが,市川伸一の批判をするならもっと敵を知ってからやるべきであった,ということが挙げられる。まあ,市川が討論会での戸瀬の発言を捻じ曲げた,なんていうレベルのことに終始しているのなら別段構わなかったのだが,ゆとり教育論者,というより,日和見主義者として批判(P.184~191)しているのである。そうなると,本書より先に「学力低下論争」を読んでいたものとしては,市川のこの文章がどうしても思い出されるのである(「学力低下論争」P.190から)。
「人が論争に多大なエネルギーをかけるときというのは,一つには何らかの利害意識がからんでいるとき,そしてもう一つは,「自分がこれを主張しなければ,だれが言うのか」という使命感にも似た役割意識をもっているときではないかと思われる。その両方がある場合には,論者は惜しみないエネルギーを論争に注ぐ。しかし,それらは議論の表に「論点」としてあがってこない。そんなことを直接的に言ってしまえば,「あの人は自分のために議論しているのか」と言われるだけである。
学力低下論の場合も,これらの意識が入り混じっているように思える。ここで,利害というのは,けっして経済的利害ばかりでなく,自らの学問の繁栄,自分の存在価値といったような心理的なものも含まれる。理数系の研究者の場合,本書でもすでに述べてきたが,そうした利害があるのは明らかである。」
さて,本書には,もう戸瀬の怒りというか憂いというか,そういう感情の発露が散見されて,それはルサンチマン人間のワシにとっては程よいユーモアとなって誠に気持ちがいいのであるが,上記の市川の文を念頭において読むと,その感情の発露部分は全て市川の言う「利害関係」を証明する証になってしまうのである。勿論,この「利害」には,情報処理の,特にアルゴリズムを考え,プログラミングを行う,真の意味での情報技術リテラシーを普及させるという大義名分があるのだが(戸瀬もその点は軽く触れてはいる),そこを理解していない人に,「語学だけで大丈夫?」(P.128~131)にあるような他分野を攻撃する所を見せてしまったら,「ああ,戸瀬は自分の職場を確保したいだけなのだ」と冷ややかに突き放されてしまうに違いない。これは致命的な失敗である。
これはあたかも,学力低下論争という舞台で,戸瀬という武士が大剣を振り回して市川という曲者の悪代官に切りかかったら,返す刀でばっさりやられてしまったというところであろうか。舞台には上がれないが,戸瀬に共感して客席から見ているワシとしては,この語学教育批判を読んで,「ああ切られてしまった・・・」とガッカリさせられたのである。まあ幸い,PISAの学力テストの結果が出て,日本の子供の学力低下は完全に認知され,文部科学省も見直し作業に入ったようだから良かったものの,論争を吹っかけるのならもっとやり方を考えて欲しかった,というのがワシの正直な感想である。
例を挙げれば,志賀浩二のように教科書を作ってみせる,つまりもっと具体的な,ハウツー的なところから積み上げていって,いかに数学が現代の科学技術を習得するには必要な知識であり鍛錬になるかを示す,といったやり方がある。人文的な論争をするよりもそっちの方が,ずっと世間に対するアピールができるはずである。そして,失われた学力を取り戻す手立ては,もはやそれしか方法がないのである。
一連の学力低下論争で気に食わなかったのは,その点である。なんか論争ばっかりやっていて,「これから先,必要となる数学知識とは何か」という具体論の話が全然聞こえてこなかったのだ,少なくとも観客たるワシには。小学校での算数には,特に低学年においては公文式の如く,ある程度の反復的計算練習が必要なことは異論はないが,じゃあ,高校生・大学生初年度に教えるべき数学は今のままでいいのか?という根本的な疑問については,あまりきちんと答えてくれていない。論争は敵を倒す,即ち十数年前までの世論をひっくり返すために必要なものであったことは認めるが,数学そのものの見直しは必要はなかったのだろうか? この問いに答えが出ない限り,やはり学力低下論争は利害関係の絡んだ単なる喧嘩であったと見られても仕方がない。そしてその問いに対して,本書が十分に答えているとはとても思えないのである。
[ BK1(リンク見つからず) | Amazon ] ISBN 4-7767-1455-8, \667
雑誌大不況時代である。出版大不況時代という言い方もあるが,単行本に関しては「売れない→多品種生産→一冊あたりの売れ行きが落ちる→ミリオンセラーを狙って更に多品種生産→・・・」という悪循環に陥っているが故の,いわば自業自得であるからあんまし深刻とも思えず,しかも多品種生産だから,ワシ好みの,あんまし一般受けしない作家や漫画家の本が沢山出るようになって,かえって嬉しい悲鳴を上げたいぐらいであるが,雑誌に関しては相当深刻らしい。まあねぇ,これだけWebや携帯(Free contents through the Internet)が普及して情報がそこから得られるとなれば,読んだら捨てるだけの紙媒体を買おうとは思わんでしょう。大体,これだけゴミ収集が厳しくなっている状況ではおいそれと分厚い雑誌を買うわけにはいかない。掛川市では古雑誌・古新聞回収は月イチしかなく,しかも雨天延期である。新聞なんてとんでもない,雑誌も月刊誌どまりであり,ジャンプだのマガジンだの新潮だの現代だのといった週刊雑誌なんぞ,ゴミ出しを考えたら定期購読する気には,とてもならない。昔はアエラを読んでいたが,静岡に来る際に購読を止めてしまった。
そんな時代であり,有能な編集者の多い出版界であるから,あの手この手で既存雑誌の目減りを食い止めようとしているようだ。一時期目に付いたのは,カリスマ的な個人を編集長にして雑誌を作るという動きで,青木雄二,さくらももこ,松山千春,桃井かおり,小林よしのり,大塚英志(編集者だから意味合いがちょっと違うかな)・・・が引っ張り出されていたが,「頓知」にさっさと見切りをつけた筑摩書房が太田垣晴子を連れてきて「O(オー)」を発行させたあたりで,そろそろ種が尽きた感がある。で,次は何が出るのかなぁ,と思っていた所に出てきたのが本書である。
ISBN番号が付与されているので区分としては単行本だが,「まあ,売れなきゃすぐに止めるし・・・」的なムック形式の雑誌と見て差し支えないだろう。表紙は志村貴子の描くモノクロの女性のアップで,「女性のための雑誌」とはどこを見ても書いていないが,まぎれもなく二十代から三十代にかけての女性向け(負け犬予備軍向け?)の内容になっている。第一特集が「見栄(みえ)」であり,第二特集が「ペット」,そのテーマに沿ったショートコミックとエッセイ(ツチケンや藤田香織さんまで!)がてんこ盛りである。谷島屋でこれを見て「新しい百合雑誌かぁ?」と思い,手にとってパラパラとページをめくったエッセイ好きのワシが反射的にレジに持っていったのは無理もないのであった。
しかし,ワシは一抹の不安を禁じえないのである。かつて同じような体裁のムックが何冊か出版されているが,どれもこれも長く続いたためしがないのである。たとえばコミックaria(光風社出版・成美堂出版)しかり,Short Stories(白泉社)しかり,である。このease(イーズ)は前者のようにエッセイも載せ,後者と同じ版形である。なんか「いつか来た道」を歩んでいるように思え,ワシとしては絶対に末期の水を取るまで付き合おうと決心しているのである。さて,「O」と「ease」,どっちが長く続くのか? 8:2のオッズで誰かワシと勝負しませんか?
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-582-85247-5, \760
某先生から聞いた話である。ある旧帝大を定年退職した老先生が,文系主体の私大へ移った。が,教授会の長さに閉口して,程なく今度は理工系の私大へ異動したそうである。その某先生曰く,「文系の人たちとは文化が違いすぎる」。
文系理系という区分はかなりいい加減なもので,その間には広大なグレーゾーンが広がっている。国立N大学工学部の助教授ミステリ作家によれば,「数学に畏敬の念を持っているのが理系」ということになるそうだから,それ以外の学者は全部文系ということになってしまう。しかし,経済学なんてのは確率微分方程式を扱ったりするから,これでは理系になってしまう。しかし経済学部を「理系」に区分している受験資料をワシは見たことがない。まあ,その程度の区分なんであろう・・・と,この業界に来るまではそう思っていたのである。
しかし,今となってはやはり文系と理系では明確に文化が違うものであると確信している。前者は「研究者自身の人生哲学も含めた議論がなされ,そこには感情的対立が当たり前のように混入している」学問分野であり,後者は「明確な目的を持ち,そこへ達成するための方法論を客観的データを土台として打ち出す」学問分野である。勿論かなりの割合でどちらも例外を含むので,あくまで個人的な概要であるが,前者が感情論も一つの議論の土台になっているのに対し,後者にはそれがあまり見られない,少なくとも感情論が議論の中にむき出しになることは殆どない,という意味での「大雑把な文化の違い」はあるように思えるのである。故に,「文系」の学者の多い教授会は議論百出で時間が長引くのに対し,「理系」の学者の多い教授会では大多数が客観的データを得るべく「早く終わんねーかな,プログラミングの続きをしたいのにな」と内心思っているために(ワシだけか?),自分に直接降りかからない限りはシャンシャン会議を黙認,というか積極的に後押しして早く終了することになるのであろう。
本書は文字通り評論家になるための入門書を目指して執筆されたものであるが,多くは小谷野の個人的体験談である。勿論,「一般向けに書かれていて,学問を踏まえていながらアカデミズムの世界では言えないようなことを,少しはみ出す形で言う,これが評論の基本的な姿だと思ってもらえばいい」(P.39)とか,「評論とは,あくまで,カネになる文章のことなのである」(P.40)とか,「全面的に間違っているような論争を,勝てると思って始めたとすれば,それは勉強が足りない。しかしそれでも間違っていたと気づいたら,それは謝るしかない」(P.179)とか,ちゃんと読者をして「うんうん,そーだよな」と納得せしめる胸のすく小谷野節が随所に見られるので,ファンは迷わず購読すべきである。しかし,やっぱりもっと面白いのはその個人的体験談で,それを読むと,「ああ文系って,なんて神経をすり減らす学問分野なんだ」と嘆息してしまうのである。涙なくして読めないのは第五章の「評論家修行」で,著者の半生が語られるのであるが,まー東大出てカナダに留学して博士号を取って著書を出しても中々認められずといった苦労が語られ,大変な世界であるなあと人事ながら同情してしまう。ま,あくまで自己申告であるから,どこまで信用できるかは微妙であるが,少なくとも著者自身としてはこういう「苦労」を味わったということは紛れもない事実なんであろう。
ああ,ワシは理系でよかった,一人でシコシコプログラミングしていればいいんだから真に気の弱いひ弱なワシ向きの学問分野である。売れなくてもいいから,暫くはインターネットで好き勝手に書いていようと,本書の目的とは逆向きの決意をした次第である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-06-212344-4, \1800
昨年(2004年)の講談社ノンフィクション賞受賞作だし,かなり話題になった本なので「あ,それ読んだ」という人も多いだろう。それでもあえて取り上げるのは,今年も仕事三昧の日々を送ろうという決意に拍車をかけるべく,まずは惚れ惚れするような力作にあやかろうという魂胆だからである。
同和問題について語ろうとするとどうしても冷や汗が首筋に滲んでくる。そんな小心者はワシ一人ではあるまい。血筋や生まれで差別するなんて,する側が100%悪いに決まっているのだが,厄介な問題に触りたくないという小市民根性からどうしても避けて通りたいと考えてしまう。この記事も一度破棄して書き直したものである。本書が話題を呼んだのは,野中広務という有名な政治家を取り上げたことと共に,同和問題を扱っているからという一種の「怖いもの見たさ」があったのではないだろうか。
しかし,本書を読めば,何故この厄介な問題を取り上げたかがはっきりする。それは野中広務という政治家が持つ,強面する恫喝v.s.社会的弱者に対する率直な思いやり,という2面性を理解するにはこの問題は避けて通れなかったからである。虐げられた経験を持つが故に,同じような状況にある者には限りない慈愛を注ぎ,自らがそのような状況にある時は怒りを持って跳ね除ける・・・人間ならば誰しもそうであろう。野中は特に後者の面で才能があり,政治家としての出発が遅かったにもかかわらず,ついには首相候補に擬せられるまでに上り詰めた,それだけのことである。
佐野眞一に見られるような文学的な比喩は皆無で,怜悧かつ静謐なジャーナリスティック文体が秀逸な,優れた人物評伝である。取材された方は迷惑この上なかったろうが,三流どころのゴーストライターに"My Life"なんて表題で執筆させるより,魚住さんに書いてもらって良かったんではないだろうか。これを読んで野中さんの評判が上がりこそすれ,下がることはない筈である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7580-5108-9, \552
今年の最後を飾る本は何にしようかな~,やっぱりゆとり教育批判への嫌味かなぁ,それとも好きなマンガで締めるか・・・と10秒ほど考えて後者にしたのであった。やっぱり楽しいのがいいよね。
イマドキ,全集が出る漫画家というのはかなり限られる。手塚治虫並のネームバリューがあって,なおかつコンテンポラリーな作家はもはや24年組ぐらいじゃないのか。人気作家が難しいとすれば,コアなマニアを捕まえている作家しかいないが,それなりにマスを持たないといくらなんでもペイするだけの販売部数すら稼げないだろう。夢路行はそのあたりのボーダーラインに乗っている数少ない作家(何せ「初版絶版作家」を続けて20年である)であり,しかもかなりのベテランでちゃんとコンテンポラリー・・・というより,今の方がかえってメジャーではないかといういうぐらいの大器晩成なお方である。この機会を逃して全集を出す機会はない・・・と弱小出版社たる一賽舎の社長が思ったかどうかは知らないが,とにかく全25巻を目指して現在出版中である。2ヶ月に一度,3冊づつ発売されるのだが,出す度に取り扱い書店が少なくなっているような気がするのはファンの心配しすぎであろうか? 何はともあれ,やっと半分出たところである。全集完結まで潰れるな,一賽舎!
という訳で本書である。12冊もある全集の中から何故これをとりあげるかとゆーと,現在秋田書店の雑誌にて連載中の「あの山越えて」の設定とよく似ているからである。まず主人公は学校の先生(「あの山越えて」では小学校の,本書は中学校の)であり,ド田舎(山奥と離島)が舞台での恋愛もの(夫婦でも恋愛しているよーにしか見えない>「あの山越えて」)というところも共通している。しかしやっぱり本書の方がストーリーとしては短い分まとまりが良く,主人公の境遇に著者の体験が生かされていると見えて人物に厚みがあると思えるのである。「あの山・・・」を人から薦められて「ちょっとたりー」と感じた人にはぜひ本書の方をお勧めする。著者が五島列島育ちということもあって,やっぱり海の自然の描写,特に海岸の小さな穴掘り温泉のリアリティは,そんじょそこらのイマドキの都会育ちの作家には描けないだろう。
この主人公については,全集を続けて読んでいると「あ,あの入鹿さん・・・」と気がつく(著者もセルフパロディと言っているが)という楽しみもある。最近,夢路行を知った方は是非とも本書を読んで,気に入ったら最寄の書店で全集を全部予約して頂きたい。そうすることで取り扱い書店が増えることが期待される。営業力が皆無なんではないかと思われる一賽舎が全集完結まで潰れないためには,それしか方法はないと思いつめる,今日この頃なのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-8401-0842-0, \980
あー・・・やっと今日も2コマ連続講義が終わったぁ~。んっとに3時間もぶっ通しで喋ると疲れるよなぁ,さーて,あとは家に帰って飯食って寝るだけ・・・あ,帰りの電車で読む本がねーなぁ。谷島屋で何かかるーく読めるやっすい本でも買っておくか・・・(新刊書の棚をウロウロしつつ)・・・うーん,いいのがないなぁ,こんな時に難しそうな新書読んでも車中で寝ちまって静岡まで行っちゃいそうだしな,イラストエッセイ的なもんでも・・・こーゆー時に限って内田春菊も西原理恵子も既に読んじゃっているんだよな・・・うーん,これは(たかぎなおこの「150cmライフ」を手に取りつつ)気にはなっているんだが,高校生が書き飛ばしたのか?つー絵だよな,まあ時間つぶしが出来ればいいのだし,まずは著者のことがよく分かるこっち(「ひとりぐらしも5年目」と交換する)にしてみるか。じゃ,これ下さい。
(静岡行き普通電車車中にて)・・・んっとにこの区間の東海道線って本数が少なくてやーねー。今日は何とか座れたからいいけどさ。さってと,読んでみるか。全くあっさりした絵だよなぁ。さくらももこに似ているけど,あそこまで捻くれてないところが180°違うな。そーいや,清水のちびまるこちゃんワールド,全然人が入ってなかったなぁ。可愛げがないんだよな,さくらももこの絵には。あれでユーモアセンスがなかったら単なる嫌味なおばさんエッセイだぜ。ワシはそっちの方が好きなんだが。
しかしこれは・・・ストレートっつーか,すっきりしすぎとゆーか,(P.84を読みつつ)・・・う・・・いくら実家が近くなればいいとはいえ,「どこでもドアが欲しい」「ノーベル賞の田中さんお願いします」だぁ?ぶぶっ。ホントにこの人三十路かぁ? ある意味,すげぇ,かも。
(「女一人の丼飯屋」を読みつつ)・・・うーむ確かに吉野家の味噌汁はインスタントっぽいよなぁ。松屋は割りと好みなんだが,この人はあんまし好きじゃないのだな・・・てんやは上品ではあるが,あんまし脂っこいのはどーも・・・しかしこの人,何だかんだ言ってもよく一人で飯屋に入るなぁ。東京暮らしの特権かな。
(「いつものスーパーでお買い物」を読みつつ)・・・そうそう,一人暮らしも慣れてくると,コンビ二よかスーパーの方が便利なんだよな。特に自炊が板についてくると,新鮮な材料が安く手に入らないと困るんだよね。でもあんまし惣菜類は買わないかぁ。飯と味噌汁は常時作り置きしてあるし・・・おっ,このトマトスープはヒットかも。ぜひ作ってみねば。
(電車,掛川に到着)・・・おっ,ちょうど「夢見る引越し 理想の間取り」を見ている所で・・・(てくてく改札口を通りながら)・・・絵は簡素だが,このストレートな表現は太田垣晴子の方に似ているな。そのうち雑誌を作ったりしたりして。読後感も良いし,丼飯屋に対する率直な感想もナイス。へろへろな絵なのに一本筋が通っていると見た。
よーし,「150cmライフ」も挑戦してみるかな。(自宅に帰ってWebをサーチして)なにっ,もう続編が出ているのか。さすが負け犬パワーはすごいのぉ。応援しようではないか。うん。
[ Bk1 | Amazon ] ISBN 4-87233-851-0, \1500
国の財政事情がこれだけ借金漬けとなり,地方自治体も殆どが火の車,将来の少子高齢化社会に備え,いくら福祉や教育に力を注ごうにも金がなければ話にならぬ。それもこれも全ては要らぬ公共事業に金を注ぎ過ぎ,土建屋だけが儲けるようになってしまったからである。これ以上,インフラ整備のための公共事業は不要である。静岡空港しかり,第二東名自動車道しかり,神戸空港しかり,である。能登空港?・・・な,何事も例外はあるっ。
(気を取り直して)しかるにっ,本書は国土交通省関東地方整備局,同東京国道工事事務所,同大宮国道工事事務所,同高崎工事事務所,同長野国道工事事務所,同多治見工事事務所,同岐阜国道工事事務所,同飯田国道工事事務所が主催もしくは後援に付いたシンポジウムのための「調査事業」として実施された中山道の路上観察を元に執筆されたもので,これこそっ,税金の無駄遣いの確たる証拠であるっ。なぜ全国の行政オンブズマンたちが本書を焚書にせぬばかりか,本書に多数掲載されている道路調査には全く役に立っていない写真とコメントと俳句を見てへらへら笑っているだけなのか,ワシには全く解せないのである。
人の顔に似ているとはいえ単なる鉄板のへっこみ(P.54)が,「不要」とだけ書かれた安っぽい玄関チャイム(P.34)が,干からびて立てかけられた箱庭(P.121)が,一体何の調査結果だというのか,国土交通省はきちんとアカウンタビリティを果たすべきであろう。確かに横川で発見されたという横顔に見える家(P.67)には爆笑させられたが,一体全体どうして道路事務所の後援を得て,このようなものを見つけるような輩に由緒正しき中山道を徘徊させて俳諧させる意味があったというのであろうか。わしにはさっぱり分からない。分かったのは誰もこのような暴挙を責めたりせず,タダ笑っているだけだということだ。しかも呆れたことに,「奥の細道 俳句でてくてく」という類書が2,200円で既に出版されているということである。このような税金の無駄遣いを,ブンカだのゲージュツだのセンスだのという一言で許していいのであろうかっ! 日本の財政状況を悪化させている原因の一つとして,本書をここに提示する次第である。笑いながら怒る初期竹中直人を演じられて一石二鳥である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-09-179274-X, \781
昨日,仕事帰りに立ち寄った三省堂名古屋駅支店で新刊出たてほやほやのこれを,何の思考も挟まず条件反射で手に取ってレジへ持っていったのであった。
帰りの新幹線でこれを読む。
うっ・・・。泣きはしなかったが,ワシもサイバラも伊藤理佐が定義するところの「田舎を捨てた人間」であり(「ハチの子リサちゃん」は必読),しかも「みっともない青春はらくちんであっとゆう間で」過ごしてしまった「何でもないただ者」であった者として,共感なんて生易しいものではないドキドキ感を持って,最後まで一気に読み切ってしまった。ここここっ,ここには昔のワシが描かれているぅ~(絶叫)。
「私がちょっとでもきれいに楽しそうに見えるように,ずっと気にしてビールを飲んだ。」若者が,ある転機を経て,「あんたが つまんないからわるいんだよ。」「このくやしいの,今度上手にかいてごらんよ。」と内心嘯く,バリッとした稼ぎ人になるまでの,そのような時期を過ごした三十路過ぎの人間にはキリキリと刺しこんでくるような物語を,とくとご賞味して頂きたい。仕事で疲れた後で読むと,そりゃぁもぉ,元気になります。なりますとも,ええ。
なったもん,ワシ。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-06-274901-7, \590
いやぁ,Webってのは長く続けてこそ価値のあるものなんだなぁ,と思わずにはいられない。その理由は二つある。
まず,本書は単行本が発行されたときに購読しているものである,ということだ。証拠はこれね。ノグッチーの新書の紹介記事だが,最後の方では単行本版「ほぼ日刊イトイ新聞の本」についても言及している。単行本が文庫化されるまで自分のこのサイトが続いていることに,我ながら感動しているのである。
この頃ワシは「インターネット論」なる講義を担当していて,そのネタ探しにいろんな本を漁っていた。その一環に,毎日チェックしていたほぼ日のサイトの主催者の書いたモノも読んだというわけである。で,「人気のあるサイトにはちゃんとした理由がある」という当たり前のことを知ったのである。自分もWebサイトを持っていたので,出来うる範囲でコツコツやっていこうと認識を新たにしたのもこの頃だっけか。以来二年経って,ほぼ日もワシも変わった点・変わらなかった点がそれぞれあるものの,まだお互い存続していることに深い感慨を覚える。
もう一つは,本書の最後に付加された第八章「その後の『ほぼ日』」の内容を,うんうん,と頷きながら読めることである。この「頷き」は,不満も満足も感じ付き合ってきたほぼ日の読者としての視点と,この二年間をそれなりに頑張って生きてきた現役労働者としての視点と,その両方に起因するものである。特に後者が重要だ。イトイは当然ワシのことなど知っているわけはなく,こちらの一方的な共感に過ぎないのだが,この世に生まれてきて,社会的に多少とも責任ある立場にあれば,常に上を目指すベクトルを抱えていなければならない。そーゆーベクトルの持つポテンシャルは,とてつもなく面白い毎日をもたらすとともに,深い疲労も時折運んでくるという,二律背反的な側面を持つ。休日や仕事の合間に訪れる休息の時間に,ついため息が出てしまうことも増えてくる。そーゆー毎日を重ねて二年。繰り返しになるが,やっぱり「お互いよくやってきたよなぁ」と言いたくなってしまうのである。あ,いや,もちろんワシの仕事量なんて,イトイに比べれば微々たるモンですけどね。Webサイトのアクセス数もほぼ日の1/10000しかないが,それはやっぱり仕事量の差でございましょう。
という訳で,「自分のWebサイトを持ち,長く維持してきた者」として,「ポテンシャルを保持しなければならない,日々の糧を得る仕事を持つ社会人」として,共感を覚えずにはいられない本書は,単行本ともどもワシにとっての宝物なのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-61766-2, \520
出版社(新書館)によれば,著者が亡くなったのは本年(2004年)7月6日(火)であるらしい。享年34歳というから,ワシより一歳下となる。間違いなく,現代では夭折の部類だろう。
で,著者が亡くなるとその著作は「最期の」とか「追悼」という文字の入った腰巻を伴って販売されるのが通例である。ワシが直接目撃したところでは,浜松と神保町の大型書店で,店員のポップも飾られて販売されていた。
そーゆー,人の死を利用した販売戦略を蛇蝎のごとく忌み嫌う人がかつては多くいたように思う。大塚英次もかがみ♪あきらが急死した後,遺稿集の発行を言い出す出版社に対してはカチンときたらしい。ワシも若いころは,書店で平積みの遺稿集を見る度に何だかイヤな気分を味わったものである。
しかしモノは考えようで,あまりにも露骨な売らんかな的態度ならともかく,それなりに節度を保ったものならば,遺作となった著作の営業もそれほど悪くないと,今は思っている。それは鶴見俊輔が自身の新刊について「これは僕の葬式饅頭本だ」と述べているのを読み,ああそういう考え方もあるのか,と目から鱗が落ちてからのことである。すべからく,その手の営業は「死亡広告」,著作の売り上げは「香典」と考えればいいのであった。
今回,出版された「香典」は2冊ある。一冊は「あとり硅子イラスト集」(\2000),もう一冊は短編集「ばらいろすみれいろ」(\520)である。・・・2520円の香典は安すぎますかそうですか。でもしゃーない。それ以外の単行本「夏待ち」「ドッペルゲンガー」「光の庭」「これらすべて不確かなもの」「黒男」「四谷渋谷入谷雑司が谷!!(1)」(これだけ第4刷)「同(2)」は殆ど初版で持っているのだから。もう買うものがないのである。すいません。今のうちにもう一セット購入しておくべきかしら・・・。
というのも,出版社の規模,現在の出版状況からして,また,著作の少なさ,作品自体のインパクトのなさ(後述するが,これは悪口ではない為念)からして,遠からず新刊書店からあとり硅子作品が消え去ると思われるからである。で,悔しいから,ここで弔詞代わりに,彼女の作品に見られる「哲学」をがなり立てておく次第である。
彼女の作品はどーも人には勧めづらい。とっても乱暴な言い方をすれば,ヌルい癒し系に分類されるであろう。であるから,「ああそーゆーのは間に合っているわ」と言われてしまいそうで,それがイヤさに黙って単行本が出るたびに買って読んで自分一人で「この良さが分かるのはワシだけさ」と自己満足に浸っていたのである。
確かに,カタルシスを感じさせてくれるような作品を,彼女は一切書かなかった。しかし,一定数の読者を捕まえていたのは確かで,寡作ながらもある一貫した姿勢を貫き通した作品群を残して,この世を去ったのである。
それを示す言葉を,つい最近,内田樹の「街場の現代思想」に見つけた。
「愛において自由であろうと望むのなら,私たちがなすべきことはとりあえず一つしかない。それは愛する人の「よく分からない言動」に安易な解釈をあてはめないことである。
「私にはこの人がよく分からない(でも好き)」という涼しい諦念のうちに踏みとどまることのできる人だけが愛の主体になりうるのである。」
あとり硅子はこの「涼しい諦念」を持って,「愛」を描き続けた作家なのである。これが一番分かりやすく描かれた作品は,松尾おばさんも取り上げていた「これらすべて不確かなもの」であろう。この作品は,息子たちには「愛していない」とヌケヌケと抜かすものの,どうやら息子たちに対する「愛」らしきものは持っているらしい父親が登場する。長男は父親のこの態度に怒り狂い,次男と三男はこの二人の行動に振り回された挙句,「諦念」を持って「愛じゃなくても・・・・・・なんかよくわかんないもんがあんだろ きっと」と納得する。
人間,性別はともかく,共同で生きていく限りにおいてはどこかで「涼しい諦念」を持つことが望ましい。その結果が愛と呼ぶものであるらしい・・・という哲学が彼女の作品を貫いているのである。
遺作となったこの短編集に収められた作品についても例外ではない。「クピト」は正体不明の叔父から送られた,いたずら者の石膏像とそれに振り回される大学生の物語である。「オムレツの月」では,口が悪く出来も悪い召使ロボットを慕う少年が,「シンプルデイズ」では犬猿の仲である友人二人の諍いを楽しみつつ仲裁してとばっちりを受ける青年が,「ひとさらい」ではさびしい物語を記述されたさびしい本が,結果として「涼しい諦念」と引き換えに愛を知る物語と言えてしまうのである。表題作「ばらいろすみれいろ」では,主人公の青年が,中身の伴わない愛情を他人から寄せられて困惑する様が描かれており,ある意味,示唆的である。
熱血ではない,低血圧マンガ(by 岡田斗志夫@BSマンガ夜話)の定義にバッチリはまる作品群でありながら,人には人が必要で,人同士が一緒に生きていくためには相手の訳のわからない言動も許容することが肝心,という哲学を提示し続けた彼女が夭折したのは真に残念である。しかしまあ,この哲学は一種の悟りであるから,悟った人物は早めに天上へ招聘されるものなのであろう,と一人納得しているのである。
彼女の生前発行された単行本のあとがきは,必ず次の文句で始まっていた。
「読もうという強い意志をもって読んで下さっているかたも,そうでないかたもこんにちは!!」
ワシは最初,「そうでないかた」であったが,そのうち「強い意志をもって読むかた」になった。冊数の少ない彼女の単行本は,あまり書店の棚を占める政治力のない新書館から発行されているため,恐らく,今が一番入手しやすいと思われる。皮肉なことだが,この機会に「そうでない」多数の方に読んで頂き,「強い意志」を持つ方になることを,愛読者として願っている。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-449202-7, \1300
一応学者の端くれでありながら,齢三十にしてようやっと自分の馬鹿さ加減とじっくり付き合えるようになりつつある。ひらめきは皆無だし,深く思考することも苦手,一穴主義に徹する持久力に欠け,それでいて自意識過剰。何より,こうして自分の短所を並べ立てつつ,頭の片隅に人様の同情を買おうという意識があるのがイヤであり,そーゆー自己弁明をつい書いてしまう自分はやっぱり愛おしい・・・とキリがないので止めるが,どーにも居心地が悪いのである。これはつまり一言で言うと「馬鹿」,ということである。
それでいて引きこもり体質なので,本来なら今頃,年金暮らしの両親にゴク潰しだの無能だの罵られつつ,エエ年こいてその脛をかじるような毎日を送っていてもおかしくないのに,一応世間並みに自活していられるのは何故か。偶然のなせる技とも言えるが,それ以外の原因を探すと,どうやらいつの間にか,自分の内部から湧き上がるエネルギーを自活するための活動に振り向けられるようになったからであるらしい。
この湧き上がるエネルギーは,自意識の過剰さから来るものであり,多くは怒りや焦り,慌てふためきとなって噴出する。それらは全て何らかの社会的活動へと駆り立てる原動力となっているのである。このWeblogもその一つである(最近は研究発表活動に割かれることが多いけど)。
もちろん,そんな感情によって引き起こされた活動の多くは見苦しく,他人からは「馬鹿が慌てて何してやがる」なーんて思われているんだろーなー,という自覚はある。自覚はあるが,じゃあ黙って沈思黙考すれば少しはましな活動ができるのか,というとそれも期待できない。馬鹿の考え休むに似たり,どころではない,そんなことをしているとほんとに休んでしまってそのままヒッキー一直線である。
とにかく走り続けなければ,走っていればそれが次の活動へ繋がる(かもしれない),という確信を得たのはついこの間,静岡に来てから数年経ってのことである。以来,「居心地の悪さ」も冷静に抱えていられるようになったのである。
で,読書の方も,怜悧かつ切れるタイプの筆者より,書くもの書くもの突っ込みどころが多く,あまり賢くないなあと思いつつ,「それでも俺は書く,書き続ける」というエネルギーを感じさせてくれる筆者の書くものを好むようになってしまった。自分はポチ保守で小泉支持にも関わらず,今でも小林よしりんを好んで読むのは,そこに魅せられているからである。
小谷野敦もそういう理由で好きな書き手の一人である。本書では,やっぱり同種の人間である佐藤愛子の一文を取り上げ,「インターネット上でシニシストぶりを発揮し,懸命に人を笑おうとしている者どもは,佐藤愛子の爪の垢でも煎じて飲むがいい」(p.134)と啖呵を切っている。パチパチ,である。
小谷野は筑摩書房からも「俺も女を泣かせてみたい」を出したばかりだが,こちらは短いエッセイを集めたものだから,どうしても法界悋気だらけとなってしまい,物知り学者としての本領が発揮されたものとはいい難い。ま,その分,生のエネルギーに満ちているとも言えるけど,うざったい感情が楽しめない人には読んでいても辛かろう。
その点,本書は長めの連載論考をまとめたもので,加筆訂正が丁寧になされたこともあって,小谷野節に馴染みのない人にもお勧めしやすい内容となっている。そのうちどっかの入試問題にでも使われるのかなぁ,と思っているのだが,どんなもんでしょうかねぇ。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7571-40754, \1400
内田樹というおじさんを知って以来,Weblogや著作を追いかけるようになってしまった。齢五十を超えるだけあって,酸いも甘いも知り尽くし,一見持って回った言い方で,落語に出てくる横丁のご隠居のような説教をかましてくれるのである。それがまことに心地よい。もっとも,説教をかますおじさん自身にとって,説教は自己弁明の役割も果たしているから,聞かされる方としては,「ちぇっ,都合のいいことばっかり言いやがって」と内心舌打ちすることもないではない。
ま,そういう点は差し引いても,内田おじさんの説教は面白いエンターテインメントでであることは間違いない。高橋源一郎が「極端ではない思想家」として褒めちぎっているが,世の常識をきちんと説明してくれる,今となっては貴重な人材なのである。
本書の大半は第三章の「街場の常識」で占められている。これはいわば内田おじさんが人生相談の回答者となって,コンコンと世の常識を説教してくれているものである。
しかしまあ何というか・・・,まことにこの回答者は容赦がない。身も蓋もない世の非情さをズケズケと語ってくれる。質問を寄せた方々がこの回答を読んでショックを受けること間違いない。
一例として「転職をすべきか,職場に留まって社内改革をすべきか」という質問に対する回答を挙げよう。
内田おじさんは,転職せざるを得ない状況に陥ったことは,貴方自身に今の職場を見る目がなかったことによるもので,その失敗の清算を迫られているのである,と指摘する。そして,社内改革をすべきかを悩むような状況にいること自体,社内改革を志すグループ存在したとしても,貴方はそこから阻害されていることに他ならず,つまり貴方に社内改革は無理ということになる,というのである。
あ~あ,である。
しかし,これは,たとえ自分にとっては辛いことであろうとも,冷厳な事実を見つめ,そこから出発しなければ何事もなしえない,生きてはいけない,ということを教えてくれているのである。十二指腸に穴が開いたとしても,このストレスは社会人として生きていくための通過儀礼として必要なものである。
三十路の若おじさんとしては,こういう事実はなるべく若いうちに知っておくことが望ましいと思う。ワシなんぞは自ら体験することによって理解できたが,痛い思いをする前に本書を読んでおけば少しは痛みが和らいだであろう(たぶん)。
つーことで,ねっちりした論理に耐える知力のある若人諸氏に,本書をお勧め致す次第です。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06180-0, \720
タイトルや内容よりも著者に興味があったので買ったようなもんである。よくもまああれだけ旺盛に著作を,しかもかなり売れるものを書けるなあと感心していた所だったのである。まだ若いんだろうなと思っていたら,著者紹介を見て還暦を超えていることを知る。うーむ,光陰矢の如し。ってこっちも年を食っているんだけどさ。
内容は著者の知る限りの人文系の学者・ジャーナリスト・編集者・在野の研究者を取り上げて,その仕事を論評するというもの。各章の最後に,「研究者として」「教育者として」「人格」「業績」の4項目をA~Dまでの4段階評価付けして,「学者総合として」の評価を算出(?)している表を添付してある。ワシは論評されている人たちの著作も業績も全然知らないので,その評価の確かさを云々する立場にはない。が,そういう評価を下すなら,もうちっと各項目の評価の根拠を詳しく書いてほしかったなとは感じる。でもまあ,それをやっちゃうとあまりにも定型的な内容になってしまうから,著者としては書いていてもつまらなく思うかもしれないなあ。
まえがきに「理系の学者を評価する能力は,私にはない」(P.12)とある通り,今西錦司以外の自然科学系・工学系の研究者は取り上げられていない。しかし,本書で指摘されていることは専門的なことは除くと殆ど常識論なので,「学者の値打ち」を判断する指標としては理系文系問わず,結構使えるものが多い。逆にワシなんぞが読むと「当たり前」のことが多くて,ちょっと退屈である。
むしろ,知の大衆化が進んで学問がどんどんビジネス化しているという状況分析に対して,うーんなるほどと感心させられる。還暦過ぎてちゃんと流動化する現在に目を向けているあたり,さすが多産「だけ」の人ではないのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-344427-3, \590
主人公である漫画家(春菊本人ではないことになっているらしい)が第三子を出産して育てる日常を描いたエッセイ風フィクション(ということになっているらしい)マンガ。
いやー,あんなにいらやしくっていかがわしかった春菊マンガが,こんなに無害で日常的でフツーに読めるようになっちゃうとはなあ。こっちが老けたせいか,作者・・・じゃない主人公が親としてのキャリアを積んだせいか。まあ,両方なんだろうな。
ところで,父親になるには「ちょんまげ」が必須の技なんだろうか・・・うーん,すいません,自信がありません(何の?)
[ bk1 | Amazon ] ISBN4-396-38013-5, \571
名著の誉れ高い本書ゆえ,内容はご存知の方が多いと思われる。文庫化されてすでに一年数ヶ月経過しており,ワシが購入したのは第6刷である。売れているようで何より。
購入したのは新宿紀伊国屋本店であったが,何が驚いたかって,表紙のインパクトの凄さったらない。表紙だけでなく,裏表紙も,折り返しの部分も,有象無象の酔っ払い女共の醜態さらした馬鹿面によって埋め尽くされている。最近は男女問わず身づくろいの技術が向上し,目の覚めるようなブサイクをついぞ見かけることはなくなっていたが,そーか,そいつらはアルコールの力を借りて居酒屋に表出するよーになっていたのだな。・・・と納得したのはいいのだが,ワシはブックカバーを断ったことを,帰りの新幹線の車中で本書を読みながらつくづく後悔したのであった。しかし,多少の羞恥心を弾き飛ばすほど,二ノ宮描く酔っ払い連中の凄まじさは面白かったのである。
アルコールに対する耐性は遺伝によって決定されるため,酔っ払いの家系には酔っ払いが,下戸の家系には下戸が多く生産される。前者は二ノ宮,後者はワシである。見合いの席で「鬼殺し」を御銚子50本注文してしまう剛毅な二ノ宮家とは正反対に,Kouya家の,特に男共は典型的なモンゴリアンで,全く飲めないわけではないが,すこぶるアルコールには弱く,ウーロン茶で飲み会に付き合い,高い会費を支払う羽目になる。そーゆー情けない下戸一族の者としては,本書で描かれる酒飲み連中は本当に羨ましく,世知辛い日本社会をうまくわたる為には「酒好き」という特性こそ必要不可欠なスキルであると再認識させられる。
文庫化にあたり,表題作の後日談にあたるエッセイ漫画も収録されている。そっかー,よっぱらい研究所長もめでたく勝ち犬になったかー。それもこれも,居酒屋で馬鹿になっちゃったおかげであろうと,冗談も嫌味も抜きで,そう思うのであります。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-592-13298-X, \571
最近,注目している書評コラムがある。Asahi.comで毎週金曜日に更新されるコラム,「松尾慈子の漫画偏愛主義」だ。性別は異なるが,世代が近いせいか,取り上げる作品がみょーにワシの好みと一致する。文章もテンパっていて面白いし,何より余計な知識や引用なしの潔い「私はこれが好きなのよ」パワーが全開しているところが良い。あんまし反響がなさそうなのが気の毒なのだが,もっと話題になって良いコラムだろう。がんばれ負け犬(ォイ)。
そこでちょろっと名前が登場する漫画家,遠藤淑子の作品を取り上げることにする。出版されたのが今年の初頭だから,まだ店頭では入手可能である。しかし,松尾さんがおっしゃっているように,単行本が出たのが数年ぶりという寡作ぶりで,本書も1997年から2001年までの作品群をまとめたものである。うーん,何があったのだろう・・・。ま,ともかく本は出たので,あまり詮索しないことにする。
遠藤はデビューからこの方ずーっとコメディを書き続けてきた作家である。今でも基本的にその路線は変わっていないのだが,次第に「ヒューマン」という形容詞が冠せられる作品が多くなっていった。個人的にはちょっとありきたりすぎるかな・・・と思うことが多く,取り立てて好きな作家ではなかったのである。大体,ヒューマニズムでまとめられる作品の多くは,大衆から嫌われることを恐れて逃げているように感じられるのだ。普段,あれこれと世間の制約から枠をハメられて思うように動けないもどかしさを感じている一般人の一人としては,せめてエンターテインメントぐらいは,少なくとも表面的には制約から逃れてスカーっとさせてくれるものを楽しみたいのである。これで少しは絵柄が派手であればまた別の楽しみ方が出来るのであるが,遠藤の絵は,申し訳ないがデビュー以来,殆ど変化がない(ように見える),地味なもので,ストーリーまで手堅くまとめられてしまっては・・・うーん・・・なのである。
しかし,人にはどうしても動かせないもの,変えられないものがあって,他人からどうこう言われても,どうしようもない性質というものがある。無理に変えようとすれば,体や精神に変調を来して寝込んでしまうことだってある。遠藤の軌跡を振り返ってみると,ちょっとゆるめのコメディ路線,しかも最後はヒューマン風味,という作風は,どうにも変えようのない代物だったのであろう。そのままずーっと描き続け,近年はボチボチやってます・・・という状況になったのもむべなるかな,という気がする。
それ故に,段々とヒューマン路線が深化していった面がある。本書の表題作である「空のむこう」と「スノウ」は,最初雑誌で読んだ時にはそれ程でもなかったのに,今このトシになって読み返すと,随分と「泣ける」話になっていることに改めて気が付かされた。何故か?
この2話は,西洋風ファンタジーと時代劇という異なる背景の作品であるが,主人公の境遇がよく似ているのである。「空のむこう」では原因・治療法とも不明の病が間欠的に流行する国の若い王,「スノウ」では二つの強国に挟まれた弱小国の若い領主である。前者は古い慣習に従って幼なじみの恋人を「生ける人柱」にしてしまい,後者では,好きになった雪女(?)と駆け落ちすることもできず,時の勢いを得た一方の強国から滅ぼされてしまう。・・・と,ストーリーを書いてしまうと何らカタルシスの得られない,淡々としたマンガのように感じられるだろうが,そのような状況に至る理由をきちんと面白く語ってくれているのである。詳細は本書を読んで確認してもらうとして,最終的に納得したのは,この二話の主人公の,状況に対して全く何の解決策も持てない無力さ,なのである。これが世間に対して無知な頃には分からなかったんだよなあ。今なら,「あーもー全くうざってぇ」とは内心思いながらも,限られた資源と状況を考えて,出来ること出来ないことを冷静に判断できる。そーゆーお年頃になって,初めて感動できるタイプの作品なのである。それが,最後に遠藤お得意のヒューマンでまとめられてしまっては,もう,こりゃオジサンもオバサンも涙腺がつい緩んでしまうのは仕方のないことでしょう。あーあ。
ということで,人生そろそろアキラメ感が漂う今日この頃の方には,ちょっと身につまされて,最後にほろっと来る作品もよいではないかな,と思う,オジサンお勧めのマンガなのであります。松尾オバサンともども推薦しておきませう。
[ Amazon | BK1 ] ISBN 4-16-725614-2, \524
現在も週刊文春にて連載が続行中のコラム「人生は五十一から」の第三弾,2000年分をまとめて文庫化したものである。
相変わらず,偏屈江戸っ子下町っ子ジジイぶりが絶好調で,ファンとしては大変嬉しい。特に近年の政治については居ても立ってもいられないらしく,激しく罵倒しまくっている。とはいえ,そこはやっぱり著者の人柄が出てしまうらしく,あえて全てを物語らず,舌足らずにぷつんと打ち切ってしまう。こちらはもう慣れたモンだから,別段どうとも思わないが,所見の読者は「あれあれ?」と戸惑うのではないかな。
著者から見れば若いワシは,今の小泉政権については基本的に支持しており,昔の首相よりは大分マシという印象を持っている。従って,著者の意見には首をかしげるところが多いのだが,「そういう人もいるのだな」ぐらいにしか感じないのは,口汚く罵れない上品さ故なんだろう。
エンターテイメントの目配りの良さについては,ちょっと衰えたところもみられないではないが,基本的には変わらない。伊東四朗・Clint Eastwood・USAのEntertainment贔屓はそのままである。昔話が多くなってきたのは,自分が語っておかなければならないという使命感が強くなってきたせいだろうか。個人的はそちらの方が為になるし,面白いのでありがたいのだが。
久々の一気読み。こういう「含み」の多い文章は,通り一遍のわかりやすさを求める現在の風潮には反しているが,それだけに貴重である。まだまだ頑張って,更なる愚痴が出ることを期待して止まない。
[ Amazon ]
CCCDにばっかり係煩っても仕方がない。少しはCDの内容に触れないといけませんな。
これは1985年の"West and Girls"から,2003年の"Miracles"と"Flamboyant"までのPSBヒット曲を集めた,所謂ベスト版である。曲リストは上記Amazonへのリンクを辿って頂くと見ることができる。もちろん公式サイトでも確認できる。
某浜松のCDショップにて「まだやっていた」というPopが張り出されているぐらいだから,もう20周年になるのかな。いやぁ,長い長い。しかもれっきとしたチャカポコテクノで,今も活動中ってのが凄い。この息の長さは,コアなファン層が老化しつつも確実に存在し,コンスタントにセールスを維持していることの証でもある。もちろん,ワシも老化しつつある極東在住ファンの一人である。
で,全35曲,通して聞いてみて,改めて思ったのは,PSBの全てはちょっともの悲しいテクノ音とNeilのオタッキーなVocalにあるんだってこと。アレンジにかなりの幅があっても,この二つが混入していることでPSBというハンコを付いていることになり,まごうことなきPSBの曲になってしまっているのである。・・・これを書きつつ,ちょうど流れてきたのが近作の"I Get Along"である。テクノ色の薄い,心地よいエレキが全体を覆うこの曲でも,NeilのVocalがほのかなテクノ色を感じさせてくれるのである。
個人的には,最新作の"Flamboyant"がいい。老成でもないマンネリでもない,でも挑戦しすぎて枠を外れていない活動ぶりが知れ,曲調も相まってほっとする一曲である。・・・とか言っているうちに"Rent"だぁ~。体が自然に揺れる~のでこの辺で失礼します。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-08-720239-9, \660
中高年の自殺が減る気配を見せない。ようやっと景気が一息つこうという時勢になってきたが,じゃあこれからは減るのか?となるとかなり疑問だ。あまりに不況期間が長かったため,各個人の仕事能力をシビアに見極める風潮が定着してしまった。何らかの理由で,「出来ない奴」という烙印を押されてしまえば最後,新卒者なら就職は難しくなり,既に社員となっているベテランでも,あの手この手で退職に追い込まれる。こうなってしまうと,ある程度は「出来る奴」と思われている人々も恐れおののき,我先にと能力合戦に突入していくことになる。しかも,定年まで続くロングスパンの競争である。この競争に勝つ・・・には至らないまでも,脱落することなく戦線内に踏みとどまるためには,自己管理能力が不可欠である。勉学に励むとかスポーツクラブに通い詰めるとか,そーゆー現時点の能力を高めることよりも,いかにこのストレスフルな社会で精神の安定を保つことができるか,ということが何より大切である。どーも,抜きん出た勝者って人達と見ていると,勉強が抜群に出来たとかスポーツ万能であったとかという以前に,精神的なタフさを生まれつき保持していたか,あるいは人生のどこかで獲得したか,どちらかではないかと思えるのだ。もちろん,単なる憎まれっ子ではダメで,プラスαの能力があってこその「勝ち」ではあるんだけど,それがない「憎まれっ子」であっても,長生きだけはするんじゃないかと思える。
ちょうどとあるワシと同年配の若手作家が自殺したという報道があって,そんなことをつらつらと考えていたところで本書が首尾良く出版され,こうしてワシの手に収まっているのである。
著者は「心療内科」の専門家(権威かどうかは知らない)であって,既に何冊か著作もあるようだ。そのせいか,なだいなだ並に読みやすい文章であり,寝床でうつらうつらしながら読んでいたら数日で読破できてしまった。内容を一言で言うと,中高年以上の自殺の原因には,かなりの割合で「うつ病」,あるいはそれが疑われるケースが存在するので,「うつ病」とはなにか,どのような症状なのか,どのように治療するのか,どんな場合にうつ病になるのか,といったことを世間に知ってもらい,適切な予防と治療を行ってもらおうというものである(長いぞ)。ふーん,うつ病って薬で治るんだ,ってのが一番感心したところ。すぐに回復するという訳ではなさそうだが,適切な治療を受ければ回復するってことを知っただけでも660円の価値はあったな。
不満が残るとすれば,まあこれは厚みに制限のある新書に望むのは酷かも知れないが,もちっと社会的な考察が欲しかったかな,という点であろうか。本書P.23に自殺者の年代別(1960年と2000年)比較のグラフというのがあって,このデータを見ると,1960年には自殺者の男女比率が57%(男) : 43%(女)なのに対し,2000年には71% : 28%となっている。どーも,この不況のプレッシャーは男に偏っているようだ。この辺の解説が欲しかったかなー,というのは無い物ねだりというものかしらん?
専門家が書いただけあって,うつ病は特殊は病気ではなく,誰にでも,特にマジメ人間に起こりやすい疾患であること,その病気のメカニズムと治療法については「なーるほど」と納得できる記述がなされている。ワシのようなズボラ人間には無縁かも知れないが,周囲でもうつ病になってしまった知人をちらほら見かける昨今,この病気に対する耐性を付けておくためにも一読をお勧めする。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-06-212118-2, \1400
この日記でも既に言及しているし,目下ベストセラー路線まっしぐらの本を今更紹介してもねぇ・・・と躊躇していたら,「東京人」5月号にて鹿島茂が,短いページ数ながら本書を「今更ながら」「面白かったので」紹介していた。別段それが悔しいとかいうのではなく,殆ど本書のあらすじ紹介みたいなその書評を読み,「オスの負け犬」である不肖・この私めは,負け犬としての義憤に駆られたのである。所詮,鹿島先生はオスの勝ち犬であるから,勝ち犬には描き得なかったであろう本書の価値をもっと賞賛しておく必要がある,と判断したのである。
そもそも,オスの負け犬本と呼ぶべきものは昔から存在した。ワシはぼちぼち負け犬として一生を送る可能性が高まってきた三十路前半から,この手の負け犬本をボチボチ漁ってきたし,手本とすべき先輩の負け犬を見つけては生きる糧としてきたのである。ここでは先輩の「オスの」負け犬についての言及はせず,オスの負け犬本だけを紹介しておこう。
負け犬の先駆者と言えば,海老原武「新・シングルライフ」である。これより以前に元祖「シングルライフ」という本を上梓しているらしいが,あいにく未見である。本書は「歩く裏切り者」津野海太郎曰く,「戦うひとり者」というぐらい,先鋭的な負け犬の主張を込めた思想書(おおげさ?)である。独身者であるが故の,世間からの攻撃・圧力・同情に対して果敢に反論を試みている。そして,世間になるべくご迷惑をおかけしない独身者としての生き方を提示して,本書を締めくくっている。負け犬たるワシをして,勇気づけられることの多い本なのだが,その海老原をして「自分は状況シングルからそのまま今日まで来てしまった」と告白している。つまり,独身者たる身分は自ら力強く選択したのではなく,なし崩し的に今日まで来てしまった,というのである。これは「結婚できるならした方がよい」という世間一般の常識を肯定しているのであって,自らの生き方をよしとはしていないのである。つまり,「自分はオスの負け犬である」ことをちゃんと認めているのである。酒井の前に,先駆的な本書があったことはもっと広く知られてよいように思う。
勿論,海老原の本は「オスの負け犬本」(しかも大分年上)であるから,メスの負け犬にとっては物足りない面もあったろう。しかし,メスの負け犬は酒井も含めた「女性作家」を探せば,いやぁ,もぉ,酒井が指摘するようにマスコミ業界同様,負け犬だらけであって,ちょっと挙げただけでも大先輩には森茉莉(バツイチだけど)を筆頭に,群ようこ,中野翠,岸本葉子・・・と評論家を名乗る人を含めれば枚挙に暇がない。しかし,彼女らにはあまり「負け」という意識がないようで,本書のように「世間的には負け負け負け・・・」と切々(飄々?)と敗北ぶりや愚痴を述べまとめたものは殆ど存在しなかったのではなかろうか?少子化に歯止めがかからず,いよいよ移民政策まで叫ばれるようになった昨今,お国に協力する気持ちはなきにしもあらずなのに,世の中,オタ夫やダメ夫やブス夫やダレ夫ばっかり氾濫して私らのような負け犬には飛びついてくれない・・・という女性陣から観た真実を述べた本書は,満を持して登場したと言ってよい。何たって,帯の文句が「嫁がず/産まず,/この齢に。」である。「ああっ,この本は私のことを書いているっ」とギクリとした方は相当数,いるのではないか?
単純に考えてみれば,人間は雄と雌が存在して,それは生殖のためにあるのだから,雄と雌はくっついているのが自然な姿なのである。そして,自然界の生存競争は自らのDNAを残すことが出来るか否かで勝ち負けが決定するのである。であるならば,くっついていない雄も雌も,生存競争から脱落した「負け犬」に他ならない。自ら「負け」を選択したかどうかは,本人のプライドに関係するだけであって,自然界から見れば負けは負け。さっさとその事実を認識し,遅まきながら「勝ち」を目指すか,「負け」を認めて子ども以外の価値を創造すべく,仕事に邁進するか,どちらかを選択しなければならないのである。このような酒井の主張は極めて明快だ。本書が,メスだけでなく,オスにも,そして勝ち犬にも読者を広げていったのは,このような単純かつ合理的な主張が,酒井の円熟した筆力によってユーモアにまで昇華している為であろう。もう,負け犬連中は涙を流しながら「こっ,これって私(俺)だよ~」と叫び,勝ち犬連中は「負け犬ってそうなんだよな~」と勝者の余裕を持って本書を楽しむことが出来る。ワシが義憤を駆られたのは,鹿島先生の書評にこの「勝者の余裕」を感じたからに他ならないのである。ぐぞぅ~。
と言う訳で,本書に触発されたオスの負け犬どもは,さっさと海老原先生の「新・シングルライフ」も読むように。酒井ばっかりよい目にあってはイケナイ。よいな。
[ BK1 | Amazon(まだ在庫なし) ] ISBN 4-7973-2339-6, \2400
昨日(2004,3/25)八重洲ブックセンター本店に入ったら,コンピュータ書籍コーナーの所に専用の台が備え付けられ,本書がドドーンと積んであったので買ってしまった。そのすぐ後にGGF報告会に行こうって輩が,こんなもん買ってどーするよ・・・と思いはしたものの,何分,よーわからんのですわ,正直言って。この手のまとまった資料本が出てくれるのは,大変ありがたかったのである(情けない)。
こちとら,HPC研究会の末席を汚しているから,それなりに話を聴く機会はあるものの,Gridっつーもんの実物を拝んだ訳ではなく,触ったこともないから,Gridがらみの研究報告があっても,「はあそーですか」という以外,さしたる感想はないのである。判ったよーな気がしなかったのである。まあ,The Internet上にセキュリティやら認証やらのAPIを備えたミドルウェアが出来ているのであろうというぐらいのイメージしか持っていなかった。
で,本書を読めば,そーゆー漠然としたGrid像をもっと明瞭なものに出来るのか? と言えば,それはやっぱり無理だったのだ(泣)。しかも,GGF報告会では,本書P.169のコラムにあるWS-RF(Resource Framework)がOGSIの次を担うということになってしまったようなのである。詳細は,グリッド協議会の会員になって,中田氏のプレゼン資料参照して下され。いやぁ,日本語文字コードと言い,ISOと言い,IEEEと言い,標準化作業ってほんとに複雑怪奇な代物ですなぁ。・・・つまり,Gridを活用した具体的事例集とか,最新情報までばっちりフォローした完璧な資料集とか,そーゆーものではないのだ,本書は。かなり誠実にGridが成立するまでの歴史概略や,Globus Toolkit 2/3の解説とそれに必要なCAやらWebやらXMLやらの周辺技術解説,インストール方法等がコンパクトにまとめられていて有用であるには違いないのだが,ワシみたいな小規模PC Clusterしか使ったことがないバカタレにとっては,これでGridを分かれと言われても,うーん,難しいのであります。やっぱり具体的事例の解説がほしいなぁ。URIだけ示されても追いかけるのは大変であります。
一応,素人向けの書籍に仕上がってはいるが,分散処理とか並列処理とか,TCP/IPに疎い人には,ここで用いられている概念理解が相当困難じゃないのかしらん? 著者らの努力によって,現時点ではかなり良い出来のGrid解説書になってはいるが,Gridを成立させているのは確固とした独自技術の固まりではなく,The Internetの上で培われて来た標準化技術,しかも激烈な競争を勝ち抜いてきたde facto Standardも含んだ寄せ集めである。もし本書の半ばで読了を諦めても,それは著者らの責任ではない。Gridというものを,シチめんどくさい内部技術をぜーんぶすっ飛ばして,ごく簡潔に提示する言語がまだ確立していないためなのである。逆に,ここで提示されている要素技術に親しんでいるIT技術者なら,付録のGlobus Toolkitのインストール方法を参考にして,Gridらしきものをでっち上げて楽しむことができよう。
・・・で,ワシと言えば,GGFの報告会を拝聴し,Globus Toolkit 4.xが出るまで様子見を決め込むことにしたのである(ぉい)。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-620-77054-X, \838
ご本人のサイトからリンクが張ってあったので,毎日新聞連載のこの作品はチラチラと読ませて貰っていた。今回,その一年と2ヶ月分がまとまったと予告があったので,早速購入したという次第。
子供を産んだ女性の漫画家は皆,育児マンガを描く。これは日本の漫画文化が根付きつつある証左である。内田春菊が自らの繁殖家庭(変換ミスに非ず)を赤裸々に書くかと思えば,青沼貴子はぽよぽよする怪獣としての息子の日常を描き,アニメ化までされてはた迷惑な子どものキンキラ声をお茶の間に届けるという暴挙に荷担した。・・・と,もう固有名詞を挙げればキリがないほど,多くの漫画家が子どもをネタにしている。少女漫画に続き,育児マンガも女性によって確立したジャンルと言える。他にも,自分のペット自慢をしまくるネコマンガ・トリマンガ等があるが,こちらはグレたり離婚したり犯罪を犯したりというスリルに欠ける分,ものすごく甘々で,大量に食すると胸焼けがするという欠点がある。やはり,人間が一番である。特に,責任を放棄した負け犬にとっては。
で,サイバラと言えばどうなるか。まあ,息子がバカで(男は大概バカである),娘が上手く(今の世は女が珍重される),元々母性溢れたサイバラの営む家庭はかなり平凡に見える。離婚というスパイスもない訳ではないが,今時,身近でこれだけ別れた事例を見せられると,もうスパイスにもならない。むしろ,離婚後もちゃんと定期的に夫と面談している辺りに,サイバラの土着的常識人ぶりを観る思いがする。
と言う訳で,ギャグも面白いし,シンミリさせる所もいつも通りではあるが,読了感はいつにも増してホノボノである。重松清が最近のサイバラを評して,優しい物語が増えてきたような気がする,と書いていたが,まあねぇ,子供を持って優しくなれないようではdomestic violenceまっしぐらでございましょう。サイバラがかように優しくなった,その理由を本書ではたっぷりと語ってくれている。負け犬としては,やはり「育児真理教は強かった」と思わざるを得ない。ぐぞ。
[BK1 | Amazon] ISBN 4-939138-13-5, \980
もうあちこちで話題になっていたので今更ではあるが,貯まった本のお蔵出し第一弾として,これは外せないのである。
本書は,アフタヌーン誌で連載されていた「蔵野夫人」をベースに,かなりの分量の書き下ろしを加えて一つのまとまった物語に紡いだものである。連載当初はさほど目立たない扱いであったが,読むと,これがまた何とも言えない独特のユーモアがあって,いっぺんに好きになってしまった。トーンもベタもカケアミも少ない,かなりすっきりとした白い絵なので,あのごっついむさ苦しいアフタヌーン連載陣に混じると,どうしても見落とされがちになるのか,9ヶ月で連載終了と相成った。そのうち講談社で単行本になるのかな~,と思っていたら一向に書店では見かけず,昨年12月になってようやっとフリースタイルという私好みの本を刊行しつつある小さい出版社から発行されたのが本書である。講談社も惜しい作家を逃したものである。その後,一部のウルサガタには好まれて話題になったのだから。
この作品集,読めば読む程,とり・みきを連想してしまう。白い空間の使い方といい,ロッドリング(ミリペンか?)を使っているところといい,連載時の原稿に思いっきり手を入れて,単行本内で一つの物語を紡いでしまうところといい,全く,とり・みき的な作家である。それでいて,あまり先鋭的なギャグ指向でない,三浦しおんにも繋がる妄想的世界を作り上げているところに,この作家のオリジナリティが光っている。
ほのぼのではない,でも,ほっと肩の力を抜きたい時にはお勧めの作品集である。
[ BK1 | Amazon ] ISDN 4-13-062450-4, \2900
昨年(2003年)に出版された良書・・・なんだが,あまり話題にならなかったな。著者があんまし自己宣伝する人ではないせいか,それとも,出版社があまり力を入れて営業していないか・・・両方だな。
こと,ソフトウェア重視の数値計算の本に関して,わしは次の点をチェックするようにしている。
まず,最初の項目についてはちゃんと存在しているので○。
次に,本書で扱っているMATLAB/Scilab(www.scilab.orgでもアクセス可)についての解説だが,これは×と○の部分がある。×なのはこれらの統合型数値計算ソフトウェアが成立した歴史的・技術的経緯が全く語られていない点。ちなみに,ScilabはfreeのMATLAB cloneと言っても差し支えない存在であるが,freeなんだからさぁ,せめて開発者groupに敬意を払う意味でも説明が欲しいよなぁ,ってのは人情じゃないでしょうか。しかし,interpreterの文法の説明については,MATLABとScilabで相違する点もきちんと明示されていて,一通りプログラミング言語の初歩を習得した読者ならば苦もなく理解できる。よってこの部分については○。
参考文献についても,巻末に明示されているので一応○。「一応」ってのは不満もあるから。確かに名著とはいえ,今頃Forsytheを紹介されても図書館ぐらいでしか読めないだろう。大体,これって日本語訳も出ているのに,その紹介ぐらいあったっていい・・・と,イマイチ詰めが甘いので「一応」が付いてしまうのであるな。
と,著者の人柄に甘えて細かい点をつついてしまったが,内容に関しては申し分ない(と言う資格がお前にあるのかという疑問を持ってはイケナイ)。面白そうな部分の記述が淡泊に過ぎて,「もうちょっと説明をしてくれよー」と思わないでもないけど,そう思わせるところも含めて大したものである。数値計算のテキストはもう大抵はこの手の統合型interpreterで記述されているから,本書によってようやっと日本語only読者も欧米型の標準テキストを読むことが出来る訳で,誠に喜ばしい。実習込みの講義をするのなら,今のところこれに勝るテキストはないと断言しておく。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-594-04256-2, \952
結局ロクに仕事できそうにないので,せめて年末最後ぐらいは貯まりに貯まった読了本の中からお勧めを引っ張り出して紹介することにする。担当編集者のインタビューはこちら,著者本人のインタビューはこちらから読むことが出来る。
今更ではあるが,やっぱり西原理恵子は面白い。本書は噂で聞いていた「脱税できるかな」を期待して買ったのだが,読了後に残るのは「ホステスできるかな」であった。
前者は,まあ自営業者なら大なり小なりやらかしていることを大々的に実行し,しかも作品にして公開してしまった,という所が目新しいと言えば目新しいが,それ程ではない。無論,爆笑しながら読んだので,面白くない訳ではないのだが,どーにも落ち着かないのである。こちとら,しがないリーマンだから,トーゴーサンの法則通り,100%所得が税務署に筒抜けで,毎日かあさんのように値切ることは出来ない。そのジェラ心が,あの中村うさぎから尻子玉を引っこ抜いた程の「脱税できるかな」を好意的に評価できなくさせているのだろうか。
しかし,後者は嘘偽りなく感動した。最近のサイバラ作品に良く出てくる,泣き笑い感動をまぜこぜにしたテイストが全開である。やっぱり池袋の業界は作者の血肉にジャストフィットしたのだろう。体張って生活を支える女性達の生きる世界は,土佐女の作品世界そのものだしね。
最後に,本書にまつわる悲劇を記しておきたい。
どういうわけか,うちのページはいつの間にやら「山田参助」でGoogleされるようになっていたのである(号泣)。その問題作も本書に収録されている。・・・ああ,せっかく,あかでみっくで,おっさーれ,かつ,どっくたーな雰囲気を作り出してきたのに,サイバラさん,あんたのおかげで,うちの,うちのページは台無しです・・・花田さんもイイ作家とつるんでいるよな・・・ぐっすん。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-03909-0, \840
目次はない。前書きもない。見開き2ページにそれぞれ「東京」マイナス「生物」を写したカラー写真が1枚ずつ掲載されていて,その写真を説明してくれるマニュアル代わりの600字程度の文章がセットになっている。それだけだ。最後に,これも長くはない「あとがき」があって,本書全体に通じるニュアンスを伝えてくれている。
従って,本書は写真メインの文庫本ということになる。しかしその写真は,東京を良く見知ったわしには何の感慨も催さない。恐らく,高度成長以降に生まれた世代なら,わしと同様だろう。東京を明瞭に感じさせる写真は皆無である。ここに示されたものは,現代日本の都市にはごくありふれたものでしかない。
ではその写真は乾いているのか? 違う。 ではウェットなのか? ベタベタではないが,そこに写っている人工物を介して,東京に生きる人間の湿り気は,少し,感じる。 突き放しているのか? 違う。文章はその写真を正確に述べている。
述べている? そう,explainではなくてdescribe。よって,本書に文章は不要なのだ。片岡義男は,不要な文を写真に付属して200ページちょっとの文庫本を編んだのである。著者の「ホームタウン」をdescribeするためだけに。
版元の筑摩書房を「不要不急の出版社」と言ったのは誰だったろうか。本書によってその「名声」はまた不動のものとなり,自社ビルを保持するまでになった。そんな不要不急の出版社を,そしてそこに作品と提供している片岡義男を経済的に成り立たせている,デフレ不況の現代日本に,そしてその中心都市・東京に,これからもよろしくお願い申し上げます。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-575-96082-9, \429
何か今月は漫画ばっかり紹介しているよーな。まあいいか。ここんと専門書ばっかり読んでいるので,自然と頭が息抜きを要求しているのであろう。
ひさびさのドーナッツブックス新刊。朝日新聞で連載を初めてから刊行がほぼストップしていたとおぼしい。ジャンル別の単行本も良いが,これは忍者もの,戦場シリーズ,小説家広岡先生,ナベツネ,ノンキャリアウーマンとバラエティに富んだ作品が一気に読めてお得。ずーっと愛読していたのだが,このたび再開されて誠に嬉しい。著者のページで発売を知って早速買ってきたという次第。
どれも四コマの天才いしいひさいちの才能が光っていて面白いが,やっぱり白眉は巻頭の「月子」シリーズだろう。わしの記憶では,藤原センセーを書くようになって,「得体の知れない美人」を使い始めるようになった。鼻面が長く,目がデカイキャラは慣れるまで違和感があったが,この月子シリーズはそれを更に増幅させて,不気味さを醸し出している。
デビュー以来,もう何年になるのか? いしいの亜流漫画家が,今は亡き文春漫画賞(いしいも取っている)を受賞するぐらいの大ベテランなのに,まだ新境地を開拓している。誠に恐ろしい,天才とはこーゆー人を言うのであるなぁ,と長年の読者をしてため息をつかせる意欲作である。
[ bk1 | Amazon ] ISBN 4-480-06140-1, \700
敬愛する編集者(教授になっちゃったけど)津野海太郎は,出版社が発行している広報誌を愛読しているそうである。これは薄くて安い,おまけに面白いと三拍子揃った希有な雑誌である。「広報」が目的だから,載っているのは自社の出版物を推薦する短い文章が大半である。幻冬舎のはちと性格が異なっているけどね。
というわけでわしも広報誌を愛読している(良いと思うことはすぐに真似をする)。といってもわしは津野さんほど勤勉な読者ではないので,購読しているのは筑摩書房と幻冬舎のものだけである。
本書に収められているエッセイの多くは前者に連載されていたものであるので,わしも途中から気が付いて読み始めた。これが面白い。連載が終わった時にはがっかりしていたのだが,この度それが新書にまとめられて出版された。誠にめでたい。
何が面白かったのか? わしは一応学者であるので,そのヒネクレ具合が心地よかった。学者たるもの,ある程度はヒネていなければならない。物事を多方面から観察しようと思えば,素直に受け取ることも必要だが,同じ比重でもって底意地悪く勘ぐる必要もあるのだ。その両方があって初めて物事を2π(ラジアンね)回転してねめ回すことができるのである。
本書のタイトル,「やぶにらみ」とは良く付けたものである。著者はあとがきで述べているように,団塊世代の典型的サヨクである。その割には学生に優しくないのは世の大学教師と同じというところが既にヒネくれている。サヨクってさぁ,もっと弱者に優しくないといけないんじゃなかったっけ?それなのに,職場(山梨大学)で,自分の専門書が3冊,学生さんに売れたという事実を知ってこんなことをのたまうのである(P.130)
本が数冊売れたぐらいで何でそんなにびっくりしたかと言えば,我が大学の最近の学生さんが,私の本を読むなどということは,まずあり得ないと思っていたからである。
うーむ,世の大学教師が言いたくても言えないことをよくもまぁ臆面もなく書けるものである。あ,わしはそんなことはチラとも思ってませんからねー(と,予防線は張っておかないとな)。
しかし,それだけに学生さんだけに留まらず,専門たる生物学への「やぶにらみ」具合は大したもので,トリビアではないけれど,へぇと唸らされる考え方が縦横に展開されている。わしが特に感心したのは「クローン人間作って,何が悪い」(P.121~),「自然保護と原理主義」(P.16~),「外来種撲滅キャンペーンに異議あり」(P.174~)である。タイトルだけでも読みたくなりません? ふーん,そういう考え方もあるのね,と感心すること,請け合います。たぶん,山梨大学でも3冊以上は売れるんじゃないだろうか。・・・いや,たき火の焚き付けにされるとかじゃなくって,ね。
[ BK1 | Amazon ] 4-575-85894-7, \552
第一巻が1986年の初版であるから,もう16年のつき合いになる。途中,作者が大病して長期休載になって以来,年に一冊刊行というペースになった。大体は秋に発行されるから,今年もそろそろ,と思っていたら案の定,見つかったという次第。わしも仕事(逃避?)に明け暮れる中年になっちまったので,このぐらいの刊行ペースはちょうど良いのである。
それにしても16年間,よくぞこれだけネタ切れにもならずに続いているよな,と感心する。蘊蓄漫画の元祖である著者だが,ここまで毎回酒をネタに取り上げていれば,もう蘊蓄を越えて専門家として威張っても良いのではないか。こちとらまるっきりの下戸であるが,おかげさまで酒の知識だけはこの漫画から摂取できている。
松っちゃんは相変わらず女性に振られまくってまだひとり者だし,メガネさんのハードボイルドスタイルも変わらない。マスターはますます年齢不詳になる。この作品世界の安定感は,世知辛い世間とは隔絶されていて大変心地よい。こちらが飽きるまで,BARレモン・ハートの営業が続くことを願わずにはいられない。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-00-430837-2, \700
前著「メディア・リテラシー」に続いての第二弾。New York Public Libraryの先進的機能の紹介に留まらず,図書館関係者や実際の利用者へのインタビューがふんだんに盛り込まれており,近年の不況によって財政的に苦しい(Public LibraryではあるがNPO法人)という実情もちゃんと報告してある辺り,何事も過不足なく調査する著者の誠実さが際立つ。
利用者の望む「本」を無料で貸し出すだけではなく,利用者の望む「情報」を,書籍やThe Internetを介して提供する,という先進的機能は,日本でも浦安市立図書館が実践していることで知られつつあるが,まだまだ全国の行政の認識は甘く,経験を積んだ司書も足りない現状では,そう簡単に普及するとは思えない。しかし,本書で示された「知のインフラ」としての機能は,間違いなくこれから必須のものとなるだろう。
The Internetが飽和状態にある今,Googleを検索すれば望みのものは何でも見つかる,という夢物語は胡散霧消し,無数の二次的情報の中から信頼のおける数少ない「情報」を求めるリテラシーが求められるようになった。そして,結局,未だに信頼の置ける情報源は,人間である著者が情報をまとめ上げ,人間である編集者が意見を述べて改良した「紙の本」であることが多い。そしてまた,あまたの本から,利用者の望む情報をすくい上げる手助けは,人間である司書に頼る他ないのである。
図書館よ永遠なれ,と,本書読了後には願わずにはいられない。ああ,著者のマジメさに引きずられて,わしの文までマジメになってしまった。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-86122-001-7, \1500
まず,1500円も読者からぶんどっておいて,こんだけ誤植(つーかタイプミス)をほったらかしにしている本も珍しい,という事実は指摘しておかねばなるまい。それでも,さすがに本職のライターが書いただけあって文章は読みやすい。しかし流れるように読める筆力があるだけに,タイプミスでその流れが引っかかってしまうのは皮肉である。もし第二刷が出るならば,それを修正した上でお願いしたい。そして私も人に勧めるのはそれを確認してからにしたい。
前書きで著者が述べているように,本書は客観的な事実に基づくマイコン→パソコンの歴史書ではない。あくまで著者の主観に基づくエッセイであり,かなり重要な事実もすっぽり抜け落ちている,なんてことも多い。DDDはどこ行った?とか,Free UNIX Compatible OS は完全無視か?とか,The Internetの歴史は?等々。しかし,そんなことは著者は百も承知で書いている(よね?)。むしろ,殆ど同時代のユーザとして過ごした私としては,第一章から第五章の記述のあらすじが殆ど自分の記憶と一致していることに驚いている。本書は確かにユーザの主観を記述した歴史書として意味がある。
しかしそれ故に,学問的には本書はかなり疑義を持って睨まれるべきものである。その時々における社会情勢の記述も,客観的データも,参考文献も皆無である。ラストの第六章の記述にアトムを持ってくるなんてのも,朝日新聞社じゃあるまいし,手垢にまみれた論考である。
コンピュータってものが,恐ろしく高速な制御機械であり,その枠を外れて使われたことは一度もない,単なるでくの坊である,という事実を,著者は意図的に忘却し,愛着のあるペットとして愛撫している,そんなキライがある。ガクモンとしてはいかがなものかとは思うが,一人の同時代人ユーザとしては,その偏愛のありかたには同情してしまう。中年ヲタクが思い出にふけるネタとしてはよくできた本である。そう思えば,多分,タイプミスにも愛着が持てるかしらん?
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-89691-759-6, \1500
「ためらいの倫理学」(2000年)以来の3年分のエッセイを集めた単行本。オトナのために,オトナの思考法を「うじうじと」述べた文章が満載されている。といいながら,読んでいて爽快感がわき上がってくる辺り,文才があるんだよね,きっと。ああ羨ましい。
「ためらいの倫理学」では小田嶋隆の影響が色濃く刻まれていたが,これはすっかりそーいったレトリックからは開放されており,50過ぎのオジさんがじっくりと腰を据えて,複雑な世の中の仕組みを省略することなく複雑なまま語ってくれている。
著者は小林よしりんが嫌いなようであるが,随分と共通している所があるのは,どっちも現実を見据えようという気構えがあるせいだろう。感情的な行き違いはあれ,世間でそれなりにステータスを築いていけば,自ずと同じ世の中の仕組みを知ることになるから,申し述べる事柄も似通ってくるのである。
わしが一番感銘を受けたのは,「ハラスメント」を考察した「呪いのコミュニケーション」(P.132~142)と「ヨイショと雅量」(P.154~159)である。特に後者は,「ほめて育てる」ことの重要性を指摘しており,何事に付け,人の足下を掬ってやろうとしている腹黒い教師としては,誠に恐縮する次第である(改めるつもりはないけど)。
今後ともWebを初めとした様々な媒体で作品を発表され続けるであろう,著者の今後の活躍に期待。いやぁ,小谷野先生に続いて尊敬する書き手と巡り会うことになろうとは思わなかったな,うん。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7885-0859-1, \2400
コヤノ先生の本は,いつ出版されたのか,その動向が掴みづらい。筑摩書房のように,新刊情報が手に入りやすい大手(でもないか)の出版社なら何とかなるのだが,単行本onlyのマイナー系出版社だと,こちらがWebをマメにチェックする必要がある。で,本書も長らく出版されていることを知らず,仕事が一段落して欲求不満を解消すべく,八重洲ブックセンター本店に突入して目を皿のように棚をサーチしている時に発見したのである。ん,もう,コヤノ先生ったら水くさい(誰に言っているのか)。
何でこんなにコヤノに入れ込むのか,というと,文章の面白さ,論理思考の強さと共に,感性が自分と似通っている,という点も大きいようである。本書は「反」文藝評論と銘打っているが,それは自分が「文藝評論家ではないから」ということであって,内容は文藝の評論,そのものである。相変わらず,わし自身はここで取り上げられている小説をまるで読んでおらず,村上春樹も右に同じという有様である。んで,小説の内容に照らしてコヤノ先生の論旨がどうなのか,ということを論評する立場にはない。が,コヤノ先生の文章そのものは全面的に肯定し,面白いと感じる。これじゃまるでパロディの元ネタを知らずに,パロディそのものを楽しんでいるようではないか。しかしそれが可能なぐらい,コヤノ節は世間に認知されているのである。そうでなければこれだけ多くの著作を世に出そうと,出版社が考えるはずがない。
にも関わらず,コヤノ先生は「作家専業でやるつもりはない」とおっしゃる。理由はあとがきに書いてあるので,ここでは触れない。しかし・・・うーん,才能のカケラもないわしからみると,誠にもったいない。生活はそれほど豊かではなさそうであるが,一応食えているのであれば,小熊英二が「本とコンピュータ」最新号で述べているように,そのままフリーの学者,ときどきエッセイストとして活躍した方がいいように思えるのだが・・・というのは,学校出てからこのかたずーっとサラリーマン生活をしている者の「隣の青い芝」的考えなんでしょうかねぇ?
本書の内容そのものについては,前述の通り,論評する立場にないので触れない。しかし,取り上げられる評論家の言い分をあれこれと詮索し,比較し,反駁する,という「文系」のガクモンの有り様が炸裂していることだけは述べておきたい。学者先生稼業は頭の勝負と思われがちだが,旺盛な脳細胞の活動を支える「体力」の方が,実は重要なのである。軟弱者を自認するコヤノ先生であるが,こと本業に関する限り,恐ろしく精力的なのである。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-344-00390-X, \952
戦争論3が出版されて,編集長の漫画二編が無事帰ってきた。これが一番の目当てなんだから,休まれては困る。後の連載は後回し。
んが,ボチボチ主張が固まってきたこともあって,繰り返しが多くなってきた。故に,読者としてはちと飽きてくる。今は中断している仏教論をまとめて一冊にしてくれないものか。
戦争論3出版後のよしりんは相変わらず忙しく全国を飛び回っているようだ。金沢の護国神社へ行ったと思えば,新装開店して大にぎわいのJR札幌駅隣接のホテル日航に一泊し,洞爺湖のウィンザーホテルに宿泊したとのこと。
それはいいのだが,洞爺湖の豪華ホテル,拓銀破綻を知るものとしては複雑な感慨を持ってしまう。カブトデコムに膨大な資金融資を行った結果,取り返しの付かない不良債権を背負ってしまったのが直接の原因なのだが,その投資先の一つがこのホテルなのである。
今は普通に運営されているようで喜ばしいが,その豪華さの裏には札幌に本店があった唯一の都市銀行の倒産劇があったのだ。それを思うと,今回のゴーマニズム宣言EXTRAを素直に楽しめないのである。ま,よしりんに罪はないのだけれど・・・ね。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-02-259835-2 \1200
人間国宝&文化功労者の噺家と,シュバリエ賞&紫綬褒章作家との対談をまとめたもの。筒井によれば,新聞に掲載されたのはこれのダイジェスト版で,「限られた紙面」であったために「面白い部分は大きく割愛」されたものだったそうである。4時間に渡る長丁場の対談にしては「朝日の謝礼というのは失礼ながら恐るべき低額」なので,本にすべきと筒井は主張し,もう一度対談を重ねて本書が出版されるに至った。
米朝という人は,私がものごころついた時には既に上方落語のの大御所で,オーソドックスな噺家というイメージがあった。が,噺を聞いてみると,マクラでは時事ネタを織り込んで観客を引きつけるだけの現代性を持っており,伝統芸能としての落語をタダ語るだけの人ではない,ということが段々と分かってきた。「大物」というのはこーゆー人のことなのであるな。小松左京と親交があるだけあって,SFを含めて本をよく読んでいるよなあ,と感心する。本職の落語に至っては,ちくま文庫から自身の解説付きの選集が発行されているが,まあ底知れない知識があって,弟子のざこばに言わせると「広うて深うてむちゃくちゃやしね」となる。
といっても,それだけ深いと自らその知識を披露するにも限界があり,引っ張り出すだけの力量を持った相手が必要である。本書の対談は,勿論,大御所同士のタッグを見せる目的で設定されたものであろうが,さすがに筒井は一歩引いて,米朝の底知れぬ知識を読者に開陳するべく,楽しみつつも奮闘しているように感じた。
んで,読んでいる方と言えば,古典芸能には全くもって暗い上,大阪の知識が皆無であるから,脚注は充実しているとはいえ,よく分からない部分が多い。それでも,語られるエピソードの多くに感心したりにやりとしたりさせられ,一気読みしてしまった。「分からない部分もあるけど,そこも含めて面白い」という楽しみ方が出来れば,なおよし,という本である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-370701-0, \629
学者さんの書いた本は文章が晦渋で分かりづらいものが多い,と巷間よく言われる。ま,ね,一昔前,研究室でふんぞり返っていられた時代なら,それは権威の象徴を高める小道具になったかもしれないが,今は全く逆である。いかに分かりやすく,しかも内容のレベルを落とさずに語れるか,その能力が学者先生の評価を定める基準となっているのである。
問題は,そーゆー,分かりやすく人に伝える文章を書く訓練を,大学とゆーところは全く教えてはくれなかった,とゆーことにある。せいぜい「ゆー」ではなく「いう」と書け,という「てにおは」チェックレベルが,卒論指導で行われる程度であった。故に,分かりやすい文章を書く能力は,分かりやすい文章をたくさん読んで自学自習で習得せねばならなかったのである。
そこで本書の著者,ウチダは「小田嶋隆」を学習し,その結果,分かりやすい文章を身につけるに至ったのである。よって,随所にオダジマ風文章が出現することになった。
オダジマ風文章の特徴に,吐き捨てるような短いセンテンスで改行し,ハードボイルドのパロディ的な雰囲気を出す,というものがあり,本書でも至る所で出現する。例えばP.236の
これではブランショ的な無限後退だ。
「おれは自分の背中を見られるぜ」
「そういうおまえの背中を俺は見ているよ」
「というおまえの背中を俺は・・・」
うんざりだ。
やめよう。
なんてのは正にそれである。論理的な文章の最後の締めがこれぐらいピッタリ填ってしまうと,お見事としか言いようがない。
解説の高橋源一郎曰く,「極端ではない思想」が詰まった,コヤノが言うところの「中庸」が徹底しているオダジマ風思想書は大変に面白い評論集であった。んが,それは「極端」を知っていなければ面白がれない代物ではないかという気もする。商業的にはやっぱり薬より毒を持っている方が重宝がられるから,たくさん読むと「ああやっぱりどっちつかずの結論ね」と飽きられてしまいかねない。保守と革新(というくくりももはや有効ではないような気がするが)のどちらにもなじめず,「ああ,俺はどっちつかずの人間なんだ」と気が付いた時に本書を読めば,「それもありなのね」と気が楽になる。が,たくさん読んでは飽きてしまう。適度に服用してこそ役に立つ思想の常備薬,というのが,私にとって一番ピッタリ来る表現である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-253-17881-2, \657
いやあ懐かしい懐かしい。週刊少年チャンピオン黄金時代の良心的漫画作品がついに文庫化された。原作者は逝去されてしまったが,わたしゃこの人の名ををこの作品で知ったので,つい最近までSF作家という認識がなかったぐらいである。
ロン先生という渾名(本名は如何に?)のビンボー学者が主人公の地味な作品であるが,脇役に元太というコメディリリーフと,洋子という色気のあるヒロインを配置して,生物にまつわる知識を織り込みつつ,オチのある質の高いユーモア短編になっている。コドモだったわしは楽して知識を得られる学習漫画が好きだったが,これは「学習」という意識を全く持つことなく,純粋なエンターテインメントとして楽しんだことを覚えている。
惜しむらくは,時代を先取りしすぎていて,相応しい評価を得られずに連載が終了してしまったことにある。岡崎二郎がきちんとした科学知識を織り込んだ短編でそれなりにヒットしたことを思えば,漫画の人気が絶頂期を終えた1990年代後半あたりに登場していれば,楽にどっかの漫画賞を獲得していただろう。
前述の通り,原作者は逝去されているから,今となっては作品を継続することは不可能である。んでも,こうやって文庫化されて,旧作といえども復活したのであるから,是非ともここでこの作品の先見性を評価してやろうではないか。日本にも誇るべき「ファーブル昆虫記」に匹敵する漫画があったのだ,と。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7542-3220-8, \1600
筒井康隆原作の小説「パプリカ」を忠実に漫画化した傑作が,連載中断後八年を経て,漫画家曰く「ダイジェスト版」なる第2部100ページを追加して,ようやっと一冊にまとまった。雑誌連載を楽しみに立ち読み(ゴメン)していた私が渇望していた作品だけに,ひときわ感慨深い。
原作の持つ馬力がもの凄いので,果たしてどこまで漫画化できるのだろうかと連載時にはハラハラしていたのだが,「おぉ・・・さすが」と唸らされる出来映えであり,それ故に理屈っぽい漫画家・萩原の苦悩は深かったと思われた。んだもんで,原作の咀嚼がうまくいかずに連載続行が困難になった,という趣旨のコメントを残して中断された時は,がっくりすると共に,まあ仕方がないか,と萩原の誠実さを褒め称える感情が同時に沸き起こったのを覚えている。
今回書き下ろされた第2部については,あれこれ言いたいことはあるのだが,それは全て萩原自身が認識しており(それもまた凄いことだが),巻末の「漫画家覚書」を読んで貰えば済むことであるので,ここでは何も言うまい。原作者・筒井との対談のおまけまで楽しめる(ジブリ版「旅のラゴス」は観たいぞ!),ちっと高くて500ページを越える分厚い傑作,見かけたら是非とも入手すべきである。配本能力に劣る弱小出版社の本だから,すぐに店頭から消えてなくなっちまうぜ,きっと。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-734005-4, \571
本書は,新潟の口は悪いが頭の切れるオバサンから「凡才」の渾名を賜った,小渕恵三・元首相の評伝である。全くマスコミ受けしなさそうな風采の上がらぬ,弁が立つ訳でもない人だったが,某国立女子大学の哲学教授にまで直接電話をかけまくる実直さでジワジワと内閣支持率を上げ,さてこれから長期政権という矢先に突然死去した,というぐらいは知っていた。が,本書ではその人当人の生い立ち,特に父親に至るまでの系図までさかのぼって調べ上げており,あの政権運営のしぶとさのルーツを知ることが出来た。解説で成田憲彦が述べている通り,本書はいわゆる永田町立志伝という趣は皆無で,よくもまあこれだけ当人に批判的なスタンスのルポライターの取材を,表面上は快く受け入れていたなあと,改めて当人の偉大さ・・・というより奇妙さを感じる。
2003年9月7日(日)のテレビ朝日系列「サンデープロジェクト」は,今月末に控えた自民党総裁選挙特集を組み,現職首相を除く候補者3人を呼んで直接意見を聞いていた。その後を受けて,総裁候補者の意見を黙って聞いていた宮澤元首相が一人で登場し,司会者田原総一郎が質問をぶつけるより早く,開口一番,
「日本の政治の浄化は,進みましたねぇ。これは特筆すべきことだと思う。昔はこんな場所に来て討論会なんて考えられなかった。ガラス張りになりました。」
シミジミと,何かを思い出しながら,断言していた。
個人的な感想だが,リクルート事件以後,政治資金規制が厳しくなり,選挙制度も変わって,たまに報じられる政治家がらみの汚職事件もめっきりスケールが小さくなっていった,そんな時代の変遷の中で,大派閥の長が最後の輝きを放ったのが小渕首相ではないかという気がしてならない。実直さを前面に押し出して自身の健康状態を度外視してもブッチホンをかけ続けた背景には,もうそれ以外に政権の浮揚を図る方策がないという判断もあったのではないか。総裁選挙で争った対立候補者グループには露骨な報復人事を行う一方,これからの政治はガラス張りになる一方であり,少なくとも表面ではマスコミ受けをしなければ何も出来ない,と思い詰めていたのではないか。
ご本人は志半ばで倒れ,話し合いで後を継いだ首相はマスコミからボロクソに叩かれて短期間で退陣し,その同じ派閥から総裁選挙を勝ち抜いた現首相は番記者とマメに会見を行い,中身がないと批判されつつも短い言葉でスパスパとTV受けするコメント発しながら,高支持率を維持している。薄れゆく意識の中で極秘裏に病院に担ぎ込まれた小渕さんは,今のこの状態を予見していたんでしょうかねぇ・・・。
[ NowonDVD.net ] \3900
GNU ProjectからLinux, Open Source Movementの関係者のインタビューをまとめたドキュメンタリー。Proprietary陣営への直接インタビューはなく,公平性を重んじる向きにはちと不満なところがあろうが,これだけの重要人物の肉声による証言はそれだけで貴重であり,買っておいて損はないDVDである。個人的にはこれと同じスタンスでThe Internet創世期のドキュメントがあれば申し分ない。どちらもお互いに絡んでいる所がたくさんあるので,大きな歴史のうねりを知るには必要な情報なのである。
ドキュメント中,StallmanがGNU Hurdについて,Linuxよりデビューが遅れた理由を説明する下りがあったりして,それなりにGNU/Linuxの歴史は知っているつもりでも,これは新発見だった。発売元がマイナーレーベルだけに,これがリリースされたことすら知らない人も多かろうが,Open Sourceに興味を持つ向きにはお勧めしておきたい佳作である。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-8211-0842-9, \1500
「オンリーユーフォーエバー症候群」から脱却し,「恋愛自由市場」に目覚めた人向けのケーススタディ(第一部 江川達也・大槻ケンジ・森永卓郎・倉田真由美との対談),理論とQ&A(第二部)を語り下ろしたオタキングの新刊。晦渋な記述もなく,200ページを越える分量がありながらあっさり読めた。
・・・んが,しかし,どーもなあ,ホントに著者はマジメに本気で「恋愛自由市場」を信じているのかどうか,かなり疑問に感じてしまうのである。
例えば,男性に対するQ&Aの中で,ギャルゲー好きの童貞オタク男性が,女性に縁がないことを嘆いているものがあるが,それに対する著者の答えは,「同世代の女子大生たちの間では,たしかに価値が低い」が「平均年齢45歳の熟女軍団のなかに行けば,23歳というだけで,あなたの市場価値は急上昇」するというものである。・・・まあ事実と言えば事実かも知れないが,同世代の女性に相手にされない悩みに対するマジメな回答とは言い難い。それならいっそ「救いようがないから諦めなさい」といってくれた方がまだすっきりする。私なら「数は少ないが,貴方のようなキモイオタクでも相手にしてくれる,美人ではないかもしれないが同じくオタクな女性をしかるべき場所で見つけ,恋愛のスキルを高めなさい」ぐらいのアドバイスはする。
第一部の対談は,著名人の恋愛観が読めるので価値はある。が,それ以降の記述には,人生を左右しかねない「恋愛自由市場」という大命題を扱っていながら軽薄さが感じられ,「あんた一体どこまで本気で語っているの?」という疑念が晴れなかった。大体著者自身,形式上は離婚していながら,実質的には普通の家庭をきちんと営んでおり,ラブ度もセックス度もそれほど高くなさそうである。そーゆー「普通の人」が「恋愛自由市場」を語るってのは,どーも,自身の経験が薄い分,軽くなっちゃうのではないか。それを埋め合わせるため,第一部でどちらの度数の高そうな著名人を引っ張り出しているのだろう。しかしこれも,実際は江川達也を除いてそれ程でもないようで,成功しているとは言い難い。
・・・とまあ,徹頭徹尾批判的なことを書いちゃっているが,それは多分,わし自身が恋愛なるものに興味がない,ということが原因だろう。わしはそれ程ワーカホリックではないが,それでも女性から「仕事と私とどっちが大事?」と迫られれば,迷わず「仕事」と答える(つーか,そう答えてしまったのだ,実際(笑))。まあねぇ,著者のように「恋愛」でメシが食えるなら兎も角,わしみたいな一市民は「仕事」しなければ日干しになってしまい,恋愛どころではないのである。勿論,その代償として,ある日アパートの一室で腐乱死体となって発見される末路を辿るぐらいのことは覚悟している。それがイヤで,ツマやコドモに看取られて安らかに死にたいと念願し,そのために「恋愛」に走ろうという向きには・・・まあ,本書はまるっきり向いていないな。むしろ,そーゆー人が努力して結婚した結果,うまくいかずに別れてしまった,その原因は何だろう・・・と考える時の手引きとして読むべきものである。
中島らもは恋愛を,避けようのない病に例えていたが,わしの見る限り,恋愛をするにも才能が必要で,それがある者だけが病にかかることができる。そして罹患した者が純愛至上主義に毒されたあげくの果てに「恋愛自由市場」・・・ですか。わしみたいな恋愛不自由者にとっては,「楽しいこともあるんだろうけど,しんどそうな世界ですなあ」と嘆息するしかない。さて,仕事でもしますか。
[ BK1 | Amazon ] ISBN4-7664-0999-X, \1800
日記にも書いた通り,本書は小林よしりんの「戦争論3」と並んで平積みにされて販売されていたものである。まんまと三省堂本店店員さんの術中にはまって購入してしまった訳だが,いやあ買って良かった読んで良かった,面白くって一気読み。論旨がすっきりしているし,評論にありがちの難渋な言葉もない。何より,副題である「草の根保守運動の実証研究」という言葉が示す通り,第3章の「史の会」のレポートは実際に会に参加し,そこに集う人々に直接取材した結果を用いて傾向を分析した部分が一番興味深かった。
第4章では「不安なウヨクたち」として詳細にこの分析を行っているが,いやあ,自分が「不安なウヨク」であることをまざまざと教えてくれましたなあ。だからといって「サヨク」になるつもりもないんだけど。
「不安なウヨク」であるわしとしては,当然丸山眞男の影響大な小熊に対して反論したいことは当然あるのだが,それはいずれ書く(かな?)「戦争論3」のレビューにて述べることにしたい。が,本書はわしや上野を含めた現代日本人にシンパシーを感じさせずにはおかない「新しい教科書を作る会」の運動をかなり正確にスケッチとして描き出した優れた研究書である。「いやぁ一本取られたわい」という気持ちを込めて,断言しておきたい。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-06-149646-8, \760
小難しいフィクションは苦手であるが故に,この著者原作のマンガは読んだことがない。評論も敬遠していたので,本書が大塚英志初体験ということになる。
そんなわしが何故本書を購入して読もうという気になったのか。これは題名がHow toもののように思えたからである。大塚英志の作品の作り方が分かりやすく述べられているものと誤解してしまったからである。
確かに著者はあとがきに「ハウツー本としてきっちりと書かれています。その点のみを期待して読んでいただいでも一向に構いません」と述べているが,それはちょっと難しげの「コミック原作者兼ノベルズ作家の大塚英志」個人にとってのものであり,果たして万人受けするHow to本かと言えば,明らかに違う。かなり分析的な評論家としての記述が多く,門外漢が「スニーカー文庫のような小説」全般の傾向を知る上ではこの上なく役に立つのだが,実作者が自分の内なるコスモを燃やして本書片手に突っ走っていけるかと言えば疑問だ。
それ故に,ジュブナイルなんぞ鼻でせせら笑ってしまうオヤジ・オバハンにはこの上なく面白い「評論」であった。現代新書として発行する決断をした編集者は,「ハウツー本としてきっちりと書かれ」ていることは承知しつつも,著者が本気で書いたらきっとオヤジ・オバハンに受ける評論要素が強くなることを承知の上で依頼を出したに違いない。これがオトナの世界ってもんさ。
では本気で「スニーカー文庫のような小説」を書きたい若人はどうすればいいのか? 簡単なことである。手近にある,自分が面白いと思った小説やマンガやゲームのシナリオをパロディ化し,自分のキャラクターとして咀嚼できるようになったら,そこで新たな物語を紡いでいけばよろしい。但し方法は自分で見つけること。ここが肝要。そこでのたうち回って苦しめばしめたものである。全ての経験は肥やしになるのだ。
そうして出来上がった物語を,冷静な目で見ることができるようなった頃,本書をもう一度読むと良い。どのようなパターンに類別されるのか,キャラクターの目的は大塚が言うところの「欠落を埋める」ことになっていないか,ストーリー作りの過程の思考方法は大塚のものと類似してはいないか。もしかすると目から鱗が落ちるかもしれないよ。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-12-003382-1, \1800
岩波講座に連載していた文学論から,断筆宣言解除に至るまでの書簡や断章,同業者の単行本の推薦文, 三島賞・谷崎賞選評,作家の評論や解説,自作のあとがき,日常の食事や筒井家に関するエッセイ,演劇論めいたエッセイを全て納めた,332ページの分厚い単行本。装丁があまりにチープで素人臭くて目立たないものであったため,書店で平積みになっていなければ絶対に見逃していた。題字は著者本人によるものだが,装丁したのは中央公論新社デザイン室となっている。もちっと目立たせても良かったんじゃないか。
それぞれのパートはそれなりに読み応えがあって,この分厚さで1800円はお買い得。特に断筆に関する経緯が全部まとまっているところは資料性が高くてありがたい。それだけに装丁の地味さはちと残念。文庫化される時には改善されるだろうことを期待したい。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-8443-1812-8, \1800
このWeblogを作るにあたり,参照させて貰った本。Movable Typeの日本語化にも携わった著者だけあって,内容の的確さはさすが。記述も分かりやすく,すぐにインストールできる。最も,日本語化パッケージは本書の内容から既に変更がなされており,Patchを当てる必要はなくなっている。
まだ全部の機能を触った訳ではないのだが,カスタマイズについての記述もあって,これからも暫くお世話になりそうである。価格1800円というのは結構お買い得ではないかと思います。はい。